File NO.204 キロロ・スノーワールド
1.リゾートの開発と誕生
@ キロロスノーワールドの開発経緯
キロロスノーワールドのある赤井川村は、山に囲まれた農林業を中心とした寒村で、北海道では占冠村に続く2番目に貧しい村というような評価を受けていた。1955年には3045人あった人口も日本の農林業の地位低下に伴って人口流出が起こり、1980年代前半には同村の人口は半減している。こうした状況下で占冠村がリゾート開発によって地域振興をする様子を見て、赤井川村も同様な地域振興政策を考えたようである。赤井川村西部の常盤地区には北海道内でも有数の豪雪地域である朝里岳や余市岳があり、そうした地域は小樽のような観光都市から車で30分程度、札幌からも80kmと近いため、スキー場建設に適していると見られていた。朝里岳の北東斜面には札幌国際スキー場が1978年にオープンしており、雪質の良さと積雪の豊富さで人気を博していた。
1984年にある企業からスキー場建設の申し出があり、赤井川村とその企業で「赤井川村森林リゾート開発協議会」を設立し、スキー場具体化に向けての協議が開始された。その後、スキー場開発に興味を示す数社が参加したものの、企業側の事業計画と国有林活用に関して合致しない部分があり、1986年にスキー場建設へ関心を示した企業は開発を断念した。その後、赤井川村はスキー場開発に関心を持つ企業にアプローチし、その企業の中で静岡県にある日本楽器製造株式会社(現ヤマハ株式会社、以下ヤマハ)が1987年に入り、リゾート開発の調査検討を開始することとなった。1987年6月、赤井川村とヤマハの間で「赤井川村森林レクリェーション協議会」を作り、7月にはヤマハがリゾート開発計画の着手を正式発表する。ヤマハおよびヤマハの子会社は沖縄県の「はいむるぶし」、三重県「合歓の郷」、静岡県「つま恋」でリゾートを経営するノウハウを持ち、ヤマハグループとして相乗効果をあげるためにリゾート事業のポートフォリオの中へ冬のリゾートを組み込む意向を持っていた。ヤマハグループとしてスキー場の開発は初めての経験であるが、ヤマハはスキーやスキー関連商品の製造を行っており、高いブランドイメージを持ち、ソフトのノウハウは持っている。ヤマハは東証1部上場の大企業であり、資金面での不安もない。リゾート開発を目指す寒村である赤井川村としては、うってつけのパートナーといえた。
ヤマハのリゾート開発の正式決定に伴って、8月に赤井川村は北海道営林局長に対して国有林の活用に対する要望書を提出する。そして、後に赤井川村常盤地区のリゾート開発は、林野庁の国有林事業の一環として国有林の活用スキームである北海道初の「ヒューマン・グリーン・プラン」の第1号に認定された。1988年4月には赤井川村のリゾート開発のために、ヤマハは100%出資の子会社、「ヤマハ北海道リゾート開発株式会社」を資本金4億8千万円で設立する。当時の林野庁の方針として、国有林を活用する開発の場合、地方自治体が開発主体に加わることを求めており、6月にはヤマハ、ヤマハ発動機、ヤマハ北海道リゾート開発によるヤマハグループが中心となり、赤井川村も出資をして第三セクター「株式会社赤井川森林レクリェーション開発公社」を資本金3億円でスタートさせた。赤井川村の出資比率は12%で、榊原秀一赤井川村村長が同社の会長、川上浩ヤマハ社長が同社の社長を兼任することになった。1989年9月に国有保安林の解除手続きが完了し、赤井川森林レクリェーション開発公社はスキー場部分の工事を着工した。この時にアイヌ語で「心」、「力」、「才能」などの意味を持つ「キロロ」をリゾートの名称にすることが発表された。キロロはスキー場を中心に、ホテル、ゴルフ場、リゾートマンション、ショッピング・飲食街を有する一大通年型リゾートに発展させる計画であった。赤井川森林開発公社はスキー場とスキー場に付随するホテル等の開発を受け持ち、朝里岳北西斜面に国内最大規模のスキー場を造成することになった。リゾート全体では、約10年で総額千億円を投じ、年間100万人の入り込みを目標としており、この壮大なリゾート計画は赤井川森林開発公社とヤマハ北海道リゾート開発が分業で行っていくビジネス・システムである。同社はスキー場開発とホテル建設のために、1989年7月に60億円にまで増資され、株主は1村26社までに拡大した。そのうちの41%はヤマハ、ヤマハ発動機、ヤマハ北海道リゾート開発が出資している。それ以外に野村不動産、住友生命、銀行などが新たに出資している。計画の第1段階では、72ヘクタールの中に9コースと5基の索道施設を持つスキー場、スキー場センターと飲食施設を持つマウンテンセンター、マウンテンセンターに隣接してマウンテンホテルを91年11月にオープンさせることとなっていた。
1990年5月には赤井川森林開発公社の増資が行われ、資本金は80億円にまで達し、株主は1村36社までに増えた。事業主体であるヤマハグループは持株比率35.5%、赤井川村の持株比率は0.45%と低下している。それ以外の株主の構成を見ると、リゾート事業に関係しそうな企業、マンション販売に備えて不動産会社、資金を供給する保険会社と銀行、顧客を運んできてくれる旅客運輸業、観光客の確保に備えて旅行代理店と広告代理店、スポーツ用品販売を主とする流通業、リゾートで使用される器材や商品を扱うメーカーや商社など、が出資している。キロロのリゾート事業は、「マウンテンエリア」と呼ばれるスキー場エリア、テニスコートや多目的スポーツ広場などの「レクリェーション・エリア」、会員制ホテルと飲食・ショッピング街を中心とする「キロロタウン」、そしてマウンテンエリアから20km離れた赤井川村富田地区に開発する「ゴルフエリア」の開発に分けられる。スキー場、マウンテンエリアセンター、マウンテンホテル、キャンプ場、テニスコート、スノーモービルワールドなどのマウンテンエリアとレクリェーションエリアの開発を赤井川森林開発公社が担当する。一方、スキー場から500m程度離れた場所に建設されるキロロタウンの中核的施設となる会員制ホテル「ピアノ」、レストラン・ショッピング街、屋内スポーツ施設、分譲リゾート・マンション、ゴルフ場などの開発をヤマハ北海道リゾート開発が受け持つというように、分業が行われる体制だった。なぜこうした分業体制にしたかというと、まず、赤井川森林開発公社がスキー場開発を主目的に設立された第三セクターであるから、事業領域をむやみに拡大できないということが考えられる。第二にリスクの分散があげられる。スキー場エリアの開発だけでも200億円の投資となる。それに加えて、新たなエリアを開発するのであるのだから、投資は倍増する。そうした投資リスクを分散していると考えられる。第三にビジネス・モデルの視点である。投資をするからには、投資を回収できる売上を必要とする。相対的に長い投資回収期間を必要とする事業を赤井川森林開発公社が、相対的に短い期間で投資を回収可能な事業をヤマハ北海道リゾート開発が受け持ったのではないかと推察する。赤井川森林開発公社の開発するスキー場は日銭が入るものの、1人の顧客が支払う金額を少額で冬場以外は稼動しない。そのため、非常に多人数の利用がなければ、投資回収が長期にわたることになる。また、スキー場のセンターは直接的な利益をあまりもたらさない。ホテル業も投資回収は長期にわたる。一方、ヤマハ北海道リゾート開発の行う事業の中で、会員制ホテルピアノは利用権の販売、分譲リゾート・マンションは所有権もしくは利用権の販売、ゴルフ場は会員券の販売によって、営業がうまく行けば、投資回収は相対的に短期間で行える可能性がある。こうしたことから、赤井川森林開発公社に関して長期間にわたる投資回収のリスクを多数の株主に分散し、ヤマハグループの負担を軽くする戦略的意図をヤマハが持っていたのではないか。一方、リゾート事業の環境が良ければ相対的に投資回収が短期間ですむ事業を、ヤマハグループだけで出資しているヤマハ北海道リゾート開発に担当させたのではないかと考える。

A キロロスノーワールドのオープン
1990年8月からは、北海道の条例などに基づいて行われる特定開発行為が許可され、通年リゾートとしての欠かさざる施設であるヤマハ赤井川ゴルフクラブの工事が着手される。1991年7月に、赤井川森林開発公社をリゾート名に合わせて「株式会社キロロ開発公社」へ変更した。8月には会員制ホテルピアノを中心としたキロロタウンの工事が着工された。そして12月には、19コース110ヘクタールの広さ、リフト8基を有するキロロスノーワールドスキー場、142室450名収容可能なマウンテンホテル、多目的スポーツグラウンドにもなるスノーモービルワールドが180億円程度の投資の末にオープンした。新しく生まれた大型リゾートということでヤマハグループが総力を挙げてマーケティングを行った結果、2ヶ月弱の間におけるスキー場への入り込みは15万人弱で、マウンテンホテルの客室稼働率も100%近くに達し、好調なスタートであった。スキー場は北海道でも一二を争う豊富な積雪とパウダースノーを売りに、スキー選手だったキロロ開発公社の富井常務取締役支配人のノウハウも活かし、初心者から上級者までの幅広い層が楽しめるようにコンピュータ設計を行った。コース整備もよくされており、楽しめるスキー場になっているのが人気になった理由であろう。また、マウンテンスキーセンターは隣接したマウンテンホテルと共に高級感があり、レストランも本格的な食事が楽しめるものであった。飲食料金や宿泊料金が高かったもののバブルの余韻が残っていた時期で、オープン効果とあいまって高い人気を得たと考えられる。
1992年12月には3300mの長さのゴンドラが20億円を投じて新設されたが、この時点でキロロ開発公社はスキー場のコースを40までに拡大し、1997年度頃の単年度黒字を目指していた。一方、リゾート開発の第2段階を受け持つヤマハ北海道リゾート開発は、キロロタウンとゴルフ場の開発で200億円強の投資を予定していた。こうした投資を早期に回収するため、キロロタウンに建設中の282室を有するホテルピアノの200室の利用権を、1室を4口に分けて利用範囲に応じて1口1250万円から2400万円で売却し、最大で192億円を回収しようと計画していた。また、キロロタウンから20kmに位置するゴルフ場は会員券を単独で販売せずに、ホテルピアノの利用権とセットで4000万円販売する予定であった。うまく販売できれば最大320億円の売上が見込め、投資以上の売上が見込めた。しかしながら、土地に関するバブル経済の崩壊が始まっていた時期だけに、法人向けおよび一般向け販売が思うようにいかなかったようである。1992年10月、将来的には6400人の収容人員を計画していたキロロタウンの分譲リゾート・マンションと新たなホテルの建設着工が延期された。先行きの見えない経済情勢で、新たに百億円単位の投資を行うのはリスクが高い、とヤマハおよびヤマハ北海道リゾート開発は判断したようである。また、親会社であるヤマハは主力収益源であるピアノとエレクトーンの売上が減少し、1991年度は年10円の配当金を6円に減配したように業績が悪化していた。そして、キロロのリゾート開発を推進していた川上浩氏は、1992年2月にヤマハの業績悪化による人員整理問題が引き金となって責任を取りヤマハ社長を辞し、後任に上島清介氏が社長となり、ヤマハのリストラクチャリングを推進する影響もあったと考えられる。1993年3月にはキロロ開発公社の社長も国田佳資専務が昇格し、川上氏が退いた。同年7月にはゴルフ場「キロロカントリークラブ」が完成し、通年リゾートとしての一通りの施設が完成した。そして、1993年12月、キロロタウンの中核施設であるホテルピアノとキロロタウンがオープンした。キロロタウンは13階建てで282室、約900人に収容人員を有するホテルピアノを中心にして、レストラン街、ショッピングセンター街、屋内プールもあるフィットネスクラブ、ゲームセンターの施設を併設し、総工費は約230億円にのぼった。そして、赤井川村はリゾートに関連した道路や簡易水道の整備に対して約7億円を投じている。
2.リゾート経営の低迷と再建
スキー場の入り込みはまずまずであったが、投資の早期回収を目指したホテルとゴルフ場の会員権販売がバブル経済崩壊による不況によって、ヤマハ北海道リゾート開発の当初描いていたビジネス・モデルが機能せず、目論見が外れてしまった。1990年から縁故販売を始めたが、1993年度までの会員権販売は約120億円にとどまっており、ヤマハ北海道リゾート開発はキロロタウンやゴルフ場の開発に投資した約330億円の半分も回収できない状態だった。同社の1993年度の決算によれば、当期損失が27億9300万円に達し、累積損失は42億6千万円にのぼっている。その結果、約150億円にのぼる債務超過に陥っており、ヤマハ北海道リゾート開発は深刻な経営危機に見舞われていた。そこで、1994年7月を持ってヤマハ北海道リゾート開発は兄弟会社のヤマハリゾートへ営業権を譲渡し、1995年3月に同社を清算されることになった。150億円の損失処理は親会社のヤマハが引き受けることで、損失がこれ以上膨らむ前に損切りをするのである。ヤマハはヤマハ北海道リゾート開発の清算に伴う損失を1994年度中間期の子会社清算損失引当金繰入額として計上する。ヤマハはこの特別損失を穴埋めするために、有価証券売却益146億6千万円を特別利益として計上することになった。今後はヤマハリゾートの全国の営業網を使い、会員権を小口化するなどして販売していくことになった。
一方、スキー場地域の開発を担当していたキロロ開発公社も1993年度の決算によれば、当期損失が16億7千万円と、オープン以来赤字経営が続いていた。その結果、累積赤字が50億円を超え、長短借入金も約149億円にまで膨れ上がり、同社は深刻な経営難に陥っていた。赤字の原因はスキー場を始めとする各種施設の工事代金208億円の支払いで生じたものであった。同社は、入り込みの少ない冬と夏休み以外の季節はマウンテンホテルを閉鎖し、営業費用削減に努めた。一方で集客を増加する様々な戦略も考えられていた。上級者向けのコースを新設、スキー場の尾根伝いに散策路を整備など施設面での充実をはかる計画が立案された。また、マウンテンホテル横の総合レジャー施設で自転車などを無料で貸し出して遊べるようにしたり、長いスキーシーズンを活用した安価な春スキーパックを提供するなど、レジャーのソフト面での充実をはかるマーケティングも行われた。一方で、ヤマハリゾートの経営するキロロタウンでは1996年6月に温泉や結婚式用のチャペルをオープンさせ、より幅広い顧客層の主客を図った。こうした状況の中で1995年12月にキロロ開発公社の臨時株主総会が開かれ、同社の減資と増資による経営再建案が議決された。まず、同社の資本金80億円を20億円にまで減資し、差額の60億円を、1994年度末にあった62億円の累積損失処理に当てる。そして、20億円になった資本金を第三者割り当てにより20億円の増資を行い、資本金を40億円にする。20億円の増資分のうち、18億円をヤマハが、2億円を赤井川村が引き受けることで決着した。この結果、ヤマハのキロロ開発公社への出資比率は60.3%となり、連結対象の子会社となる。また、1994年度末に160億円程度あった借入金を削減するために、スポーツクラブハウスや多目的レジャー広場などの施設を24億円弱でヤマハリゾートへ売却することになった。そして、マウンテンホテルの運営をヤマハリゾートへ委託し、人件費を削減して単年度の損益を改善するようにした。キロロ開発公社はこうしたスキームにより累積損失のほとんどを処理し、借入金返済と金利低下の恩恵で支払利息を減少させ、経営を再建するのである。反面、同社の事業はスキー場のリフト運営とホテルの賃貸業に特化することになる。こうした再建計画により、売上は採算性の悪い事業の移管などで減少したものの、借入金の圧縮による支払金利の減少などの恩恵で、同社の1995年度の当期損失は6億9700万円と前年度に比較して赤字を45%減らし、1996年度の当期損失は8766万円まで大幅に改善させた。そして、1997年度に売上は減少したものの販売管理費の圧縮により営業利益段階で1億8600万円を確保し、同社設立以来初めて3500万円の純利益を計上した。しかしながら、累積損失は10億円強残っている。1998年度も売上が減少したが、経費削減の効果により1億3400万円の純利益をあげるに至っている(図表10)。
(図表10) 「キロロ開発公社の業績推移」

一方、ヤマハ北海道リゾート開発の清算およびキロロ開発公社の経営再建に大きな役割を担ったヤマハリゾートの経営が悪化し、1996年2月にヤマハはヤマハリゾート支援策を発表する。ヤマハリゾートは、ヤマハ本体の収益性の低いレクリェーション部門を1990年に分社化し誕生したヤマハの子会社である。全国9ヶ所でリゾート施設を経営しているが、海外との競争やバブル経済崩壊による国内旅行市場の低迷によって、1993年度から1995年度まで3期連続の赤字が確実というような業績低迷が続いていた。そうした状況で、キロロリゾートに関連するリストラクチャリングの負担を負ったため、ヤマハリゾートの経営はいっそう悪化していったのである。そこで支援策であるが、まず、ヤマハリゾートの資本金132億円を66億円へ減資し、減資した分を約50億円に上る累積損失処理に当てる。そして、キロロ開発公社から購入する施設の代金に見合う24億円の増資を行い、ヤマハが引き受ける。ヤマハリゾートは各地域のリゾート施設を分社化、パート社員増加などによる人件費削減、利用率の低い施設の休止などで、3年後の黒字を目標にしたが、経常損益は依然として赤字の状態で、1998年度は17億円の赤字である。12月には同社の経営陣を一新し、経営再建を目指すことになった。ヤマハリゾートの経営再建支援によって、キロロリゾートの再建スキームも完了したといえよう。
3.キロロリゾートの経営
@ スキー場の分析
キロロスノーワールドは、キロロリゾートの中のスキー場に対する名称である。大規模多機能型スキー場として、直接的なライバルは立地的に見てニセコ山系のスキー場やルスツリゾートスキー場であろう。ニセコ山系のスキー場とは車で1時間程度の距離で、ニセコ山系の積雪が不十分なときにニセコのツアー客はキロロスノーワールドへやってくることが多い。キロロスノーワールドは札幌から車で1時間半程度、札幌からの距離ではルスツリゾートと同程度である。キロロスノーワールドは近辺に鉄道がなく、交通手段はバスや車となる。そのため、キロロスノーワールドは札幌市内4ヶ所、新千歳空港、小樽駅前、江別駅、朝里からバスの発着を行い、自家用車を持たない人の交通手段を確保している。バスの場合、バス料金と索道料金をセットした割安なパックを販売している。自家用車で行く場合、札幌からだと小樽か朝里を経由して国道393号線で行くが、途中にある毛無山の山道は慣れないドライバーにとっては鬼門であろう。また、バスにとってもこの国道は狭い道なので、走りにくいといえる。ルスツリゾートもキロロリゾートも、強力な開発主体により計画的に開発された通年型高級リゾートという共通の性格を持つ。リゾートの近辺には街がなく、リゾートへ来た観光客はリゾート施設の中で楽しんでいく。そのため、リゾートの中でレジャーや各種サービスを完結させている。キロロリゾートの中心はマウンテンエリアとキロロタウンであるが、両地域は500m程度離れているため、無料のシャトルバスが15分間隔で往復している。1997年6月にはキロロタウンに温泉もでき、リゾートとしての魅力がますます高まっている。キロロリゾートの中で受けられるサービスは従業員の接客の良さや施設の高級感もあり、きわめて好ましいと感じるものである。また、育児所、カラオケルーム、ゲームセンターなどの施設も充実している。しかしながら、高級リゾートらしく、飲食やサービスの価格は高めである。接客サービスの良さはキロロスノーワールドでも感じられ、ヤマハのリゾート経営ノウハウを垣間見る気がした。
スキー場は前述したように積雪が豊富で、雪質はきわめて良い。スキー場は長峰エリア、朝里エリア、余市エリアに大別される(図表11)。そのため、各エリアの連結は山麓まで降りる必要があり、一気に滑り降りられるコースが少なく、コースの多さの割には広さを感じない。いくつかの独立したコースが集まって、スキー場を構成しているようなレイアウトである。また、コースの一部は幅の狭いところがあり、あまり広さを感じさせないことを助長させている。コースのレイアウトはバラエティーに富んでおり、基本的には圧雪されているが、一部のコースはコブ斜面を楽しめ、幅広い技量のスキーヤーやスノーボーダーを楽しませてくれるであろう。ハーフパイプやワンメイクのジャンプ台も完備している。しかしながら、山麓近くになると、緩斜面が長く続き、上中級者にとっては退屈に感じるかもしれない。索道施設はゴンドラやフード付きリフトが多く、スピードも速く快適である。索道の利用料金は、全日券、午前券、午後券、夕方券、ナイター券、回数券などであったが、1999/2000年のシーズンから4時間券と2時間券が登場する。索道の料金体系が複雑になりすぎているので、全日券、4時間券、2時間券、ナイター券、回数券程度の種類で良いのではないかと考える。インターネットではゲレンデの情報を発信しているだけではなく、マイレージ・サービス、クーポン券の発行、プレゼントなどを行っており、積極的に活用している。
(図表11) 「キロロスノーワールドのコース図」

(図表12) 「キロロスノーワールド策道利用者数の推移」

キロロスノーワールドの策道利用者数はオープン以来30万人台で推移しており、安定しているといえよう(図表12)。当初の計画ではオープン後の策道利用者数が増加しつづけるはずであったが、バブル経済崩壊の影響と、それに伴うキロロリゾートの計画縮小の影響によって大幅な増加は見込めなくなっているようである。しかしながら、策道1席あたりの利用者数は12万8000人とルスツリゾートよりも多く、効率が良いといえる。最上部まで行くゴンドラで少し待ち時間がある程度で、あまり混んでいるという印象は薄い。また、営業日数もルスツリゾートスキー場より長いため、策道事業だけで考えるのならば減価償却を行っても収益性はまあまあなのではないかと推定する。では、策道事業を行うキロロ開発公社がなぜ減資をしなくてはならないほど経営悪化に追い込まれたかというと、マウンテンセンターとマウンテンホテルといったスキー場の付帯施設の負担が大きかったからではないか。スキー場事業にとって大きな負担となる宿泊施設を建設しなければ良かったかといえば、宿泊施設がなければキロロスノーワールドはこれだけの索道利用者を獲得できなかったであろうから、宿泊施設を付帯して多機能型にする事業計画は完全に誤りとはいえない。ここがスキー場事業の非常に難しいところであろう。スキー場業界の経営環境が厳しい昨今では、例えば、ホテルなどの付帯施設を、リゾートホテル事業を専業とする他社に建設してもらい、運営もその企業に任せるか、もしくはリースして策道経営会社がホテル事業を運営するなどして初期投資を抑える工夫が求められよう。

A 地域社会とキロロのリゾート経営
キロロリゾートの開発は地元赤井川村の経済振興計画をバックに、ヤマハグループがレジャー産業におけるいっそうの成長を目指した経営戦略の流れの中で実現されたものである。経済的に貧しい地方自治体と民間企業の協動というビジネス・システムは、占冠村のアルファリゾート・トマムと同様である。こうしたシステムの持つメリットは、地方自治体側が土地や道路などのインフラ施設という事業に関わる環境資源を提供し、民間企業が資金、経営ノウハウを提供する結果、民間企業の活動に対して地方自治体があまり干渉しないで民間企業の活力を十分引き出すことができることである。しかしながら、地方自治体側がパートナーである民間企業の活動をチェックできず、予想以上のリスクを負ってしまったり、事業活動からの地域経済への貢献が予想以下になってしまう可能性がある。赤井川村は、当初キロロ開発公社へ出資した3600万円とキロロリゾート近辺の地域整備への支出3億6000万円に対する見返りとして、固定資産税を始めとする各種税収の大幅な増加、雇用機会の増大と人口の増加といった直接的経済的メリットを享受できた。赤井川村の財政を見ると、キロロリゾートオープン以前の1991年度の歳入は18億5千万円であったが、リゾートオープンの効果がフルに寄与した1993年度の歳入規模は30億円を超し、1996年度には40億円近くまでに達している。歳出規模も同様に20億円近く増加している。人口に関しては経済効果と比較すれば小さいものの、過疎化には歯止めがかかり、人口はキロロリゾートオープン前と比較して100人程度増加している。また、キロロの名前が全国的に知られることで村の認知度が高まったり、リゾートと取引をする地元農協など、地域社会に対しても好影響をもたらした。キロロ・リゾートが誕生した以前は、赤井川村の観光客の入り込み数のデータを取っていないような状況で、観光とは無縁の地域であった。しかしながら、キロロ・リゾート誕生以降、1998年度はゴルフ客などが減少した影響があったものの、それまでは順調に入り込みを増やしていたのである。一方、冬季の観光客入り込みは、日帰り客の減少が響いているものの、宿泊客の増加によって現状維持というような感じである(図表13)。キロロ開発公社の減資による損失引き受けと、増資の引き受けで予想外の追加投資が生じたが、それでもトータルすれば地域社会に対するリゾートの貢献は大きいと考える。しかしながら、キロロリゾートの経営悪化に対してヤマハが責任を持って支援したから良かったが、もし、ヤマハが支援を打ち切ったり、キロロリゾートを放棄するようなことになっていたら、赤井川村へ大きなダメージを与えていたであろう。民活の重要なポイントは、民間企業に対して事業責任をしっかり負わせる一方、地元自治体や議会が民間企業の事業に対して過度の干渉を避けることであるが、民間企業の事業破綻が地域社会へ大きなダメージを与えないよう、地域社会によるチェックを怠らないようにすることであろう。
(図表13) 「赤井川村冬季観光客入り込みの推移」

キロロリゾートはバブル経済の形成期に計画され、バブル経済崩壊後にリゾートがオープンしたという不幸を背負っている。バブル経済によって日本の多くの企業は経営を拡大させ、その後経営を悪化させているので、キロロ開発公社やヤマハ北海道リゾート開発の経営を批判するのは難しい。しかしながら、リゾートの拡張に関して、リスク・ヘッジの面でもう少し慎重であったほうが良いかもしれない。リゾート経営は投資が大きくなればなるほど、短期間で単年度黒字化し、投資を回収するのは非常に難しくなる。キロロリゾートはスキー場近辺のマウンテンエリア、ホテルピアノを中心としたキロロタウン、キロロリゾートから車で20分程度離れたキロロカントリークラブから構成されている。エリアごとに事業主体が異なるため難しいかもしれないが、マウンテンエリアの状況を2〜3年見てから、キロロタウンの開発に取り掛かっても良かったのではないかと考える。キロロリゾートは大都市札幌からそれほど遠くない。まず、札幌圏の顧客をしっかり確保して日帰りリゾートとしての収益構造を確立してから、滞在型リゾートへの成長のために投資を行うという戦略も考慮しても良かったのではないか。
キロロ開発公社の重荷はヤマハグループが引き受け身軽になったおかげで、まだ累積損失が9億円程度残っているものの、同社は単年度黒字へ転換している。キロロスノーワールドはスキー場として好条件に恵まれ、キロロ開発公社の経営努力もあって北海道内でも有数の素晴らしいスキー場である。交通の便でも小樽国体の開催に伴って建設された望洋台道路の開通によって、札幌からのアクセスがより便利になった。スキー離れから冬期間の日帰り客が減少しているのが不安であるが、それを相殺するように宿泊客は順調に増加している。今後はキロロスノーワールドの魅力をアピールすることで日帰りスキー客の集客を強化することが、今後のキロロ開発公社にとって重要であると考える。(1998年2月調査)