File NO.203 アルファリゾート・トマムスキー場
1.アルファリゾート・トマムの誕生とその成長
@ リゾート開発の経緯
アルファリゾート・トマムスキー場は、日高山脈と夕張山脈に囲まれた占冠村のトマム地区開発のために計画された大型リゾートの中核的施設で、1983年に開業した多機能型スキー場である。占冠村は1960年代初頭には人口が4700人以上であったが、トマム山開発案が浮上した1980年頃には、1600人までに減少し、道内でもっとも人口の少ない過疎の村となっていた。人口の急激な減少は地域社会における諸活動を停滞させ、占冠村としての活性化政策の実行が急務となっていた。産業振興として肉牛の飼育、野菜や園芸作物の栽培、淡水魚養殖、山菜加工などが行われたが、ある程度の成果はあるものの、過疎化を食い止めることはできなかった。そこで、リゾートによる振興が考えられ、1974年には占冠駅西側の三角山にスキー場を開発する構想が生まれ、三角山を調査したところスキー場には不適切な地質と分かり断念した。1979年には「日高地方特定農山村開発調査」が行われ、北海道開発庁の調査官がトマム山を開発する必要性を提案した。それを受け、1980年から開発を前提としたトマム山の調査を行い、同年4月には「石勝高原総合レクリエーション施設計画書」が策定された。1981年からは鉄道弘済会北海道支部長が座長となり、北海道開発局、北海道、上川支庁、北海道東北開発公庫、北海道拓殖銀行、札鉄、日本交通公社、占冠村らが「石勝高原総合レクリエーション施設開発協議会」を結成、その場で具体的な事業計画が話し合われた。事業計画が大規模化することと、リゾート経営に関する民間企業のノウハウが必要であることから、民間企業からの出資をあおぎ、第三セクターの形式で開発することが決定された。以前からトマム地域の開発に関心を持っていた株式会社ホテルアルファと協議を開始し、ホテルアルファ側から開発への参加承諾を得た。ホテルアルファは仙台に本拠を置く関兵精麦株式会社の子会社で、北海道ではホテルの経営に携わっていた。同年には札幌、新千歳空港、帯広を結ぶ国鉄石勝線が開業し、トマム駅が開設され、トマム山開発の課題の一つである交通条件が改善されることになり、スキー場としての立地がより好ましいものになった。1982年にトマム地域の開発を行う株式会社シムカップ・リゾート開発公社が設立された。資本金9800万円のうち、占冠村は5000万円(出資比率51%)を出資、残りをホテルアルファが2800万円(同28.6%)、関兵精麦が2000万円(同20.4%)出資し、代表取締役社長には観音信則占冠村村長が就任した。
トマム地域の開発に関して、スキー場関係はシムカップ・リゾート開発公社が行い、スキー場内の宿泊施設やレストラン等の付帯施設はホテルアルファが行った。スキー場は国有地を使用するため、林野庁の方針でスキー場開発会社へ地元自治体が出資をすることを求められており、トマム山開発でも第三セクターがスキー場開発をするというやり方を採用した。1982年9月から第1期工事としてスキー場とホテルが着工され、1983年12月に2500mのゴンドラ1基とリフト4基を持つスキー場、ゴンドラの出発駅を併設するリゾートセンター、スキー場からトマム駅に直結する連絡橋とインフォメーションセンター、155室のリゾートホテル「アルファトマム」が完成、営業を開始した。本格的スキーリゾートとして人気を集め、初年度から索道利用者数は74万人を超えるほどであった。自動車で行くには札幌や旭川からは2時間以上かかり便利とはいえないが、石勝線トマム駅が隣接しているため、国鉄を利用すれば札幌駅から1時間半でゲレンデへ行ける。そのため、列車利用者が多いのが特徴であった。ホテルやレストラン施設も充実しており、北海道以外の地域からも多くの利用客を集めていた。

A リゾートの拡張
1984年5月にはアルファリゾート・トマムの新たな開発計画が策定され、宿泊施設、ゴルフ場、野球場、屋内体育館、インドアウォーターパーク、ショッピングモール、キャンプ場、国際会議場、ヘリポートなどの新設や増設が盛り込まれた総投資額2000億円、隣接の南富良野地域をも含む総エリア面積5000haにのぼる山岳リゾート都市を創造する計画であった。スキー場エリアでは1984年と1985年にリフト施設を2基ずつ増設しているが、スキー場エリアの拡張はリゾートの拡張を支援する手段であった。アルファリゾート・トマムスキー場は集客の手段であって、収益源の中心は、1口400万円から500万円の宿泊施設の会員権販売であったようである。そのため、リゾートとしての付加価値を高めていく必要があるのだ。同時にスキー特別列車「アルファエクスプレス」が運行を開始されて、アルファリゾートへのアクセスの利便性を高め、こうした国鉄との協調戦略もアルファリゾートの価値を高めるものであった。1985年12月には、305部屋を持つ北海道内で最大規模の分譲方式のリゾート・コンドミニアム「ザ・ビレッジアルファ」が完成し、宿泊面での充実をはかって大規模リゾートへ成長した。ホテルの宿泊施設が拡充されると、稼働率の上昇が課題となり、スキーシーズン以外の夏期に集客できるレジャー施設が必要となる。スキー場エリアの山麓はなだらかで、冬期間以外はテニスやゴルフができる通年リゾートとして当初から設計されており、1986年5月から18ホールのゴルフ場が造成開始され、7月にはテニスコート19面が完成した。
関兵製麦が中心となったリゾート開発の過程は、後にいうバブル経済の形成期に当たり、資金調達も容易に行えたようで、アルファリゾート・トマムは順調に拡大を続けていく。1988年に総合保養地域整備法(通称リゾート法)の適用を受けたことも追い風になった。投資金額の大きい建造物の増設を見ていくと、1987年12月には地上36階、401部屋を持つ会員制ホテル「ザ・タワーT」が完成し、ホテルアルファが運営した。1989年12月には地上36階、376部屋を持つ会員制ホテル「ザ・タワーU」が開業する。「ザ・タワーU」の開業により、コンドミニアム形式の施設を含めてアルファリゾート・トマムの宿泊施設の収容人員はリゾート・オープン時の10倍にあたる4700人強となった。一方、スキー場の索道施設の利用者に関する推移を見ると、1989/90年のシーズンには開業時の3倍にあたる225万人が索道を利用している。スキー場事業に関する損益は、少なくとも単年度黒字になっていたと考える。そして、1990年にはリフト2基が増設され、ゴンドラ1基、リフト10基、18コースを持つ、道内でも有数の大規模スキー場へ成長した。
2.アルファ・コーポレーションの経営破綻
@ リゾート経営の失速
アルファリゾートは、仙台にある関兵製麦とその子会社のホテルアルファが中心になって開発を進めた。関兵製麦は関兵馬氏がオーナーであり、アルファリゾート・トマム内の施設は関兵製麦が建設、所有していた。そして、その次男である関光策氏が社長を務めるホテル・アルファがそれらの施設を運営し、事業の分業が確立されていた。しかしながら、1980年代後半に関兵製麦グループの中で何らかの問題が生じたようである。関光策氏は1989年にアルファ・コーポレーションを設立した。そして、アルファコーポレーションは1990年代に入り、関兵製麦グループとは別にアルファリゾート・トマム内で宿泊施設やレジャー施設を単独で開発し始めた。アルファ・コーポレーションは、トマムの北側に隣接する南富良野町金の沢地区、占冠村上トマムと奥トマム地区の合計2300haに81ホールのゴルフ場とスキー場を建設しようと計画し、同社と第三セクターのシムカップ・リゾート開発公社で共同開発しようとした。しかしながら、地域住民の一部からは自然保護の観点から、反対意見が出された。
リゾート自体の拡張は自然保護の高まりから困難が予想されたが、既存のリゾート内における施設の増設は順調に行われていったようだ。アルファ・コーポレーションは、1991年12月に地上32階スイートルーム100室を持つ会員制ホテル「ガリレア・タワースイートホテル・サウス」と地上8階200室を持つを会員制ホテル「ヴィラ・スポルトT」を、1992年6月には地上32階100室を持つ会員制ホテル「ガリレア・タワースイートホテル・サウス」を、同年12月には地上6階187室の会員制ホテル「ヴィラ・マルシェ・ホテルアビチ」と地上4階108室の会員制ホテル「ヴィラ・スポルトU」を次々と開業していく。この時期は株式市場のバブルは崩壊し、余剰資金が不動産事業に向かった最終局面の状況であり、アルファ・コーポレーションは、建設着手時期にはこうした宿泊施設を建設する資金をノンバンクなどを通じて容易に調達することができたと推測される。しかしながら、大蔵省・日銀の金融政策が変更となり、資金流入が細った不動産業界は苦境に陥る。アルファ・コーポレーションも同様に、宿泊施設を開業する頃は資金不足に悩んでいたのではないか。会員制のホテルは会員権の販売が順調であれば、通常のホテルとは異なり短期間で資金回収が可能である。しかしながら、資産デフレが起きつつある状況で、法人向けに4000万円程度もするリゾートホテルの会員権販売は大変だったようで、500億円以上の会員権が売れ残っていたとされる。一方、スキー場の入り込みは年毎の変動はあるものの堅調だったようである。また、バブル経済崩壊前にほとんどの施設を開業していた関兵製麦が所有するリゾート施設も、宿泊客が減少したりで収益性が低下していたものの、投資資金を回収できており、十分苦境を乗り切れるだけの体制が整っていた。
1994年12月、アルファ・コーポレーションが長期借入金の返済に関して資金難に陥り、大林組などゼネコン3社と、北海道東北開発公庫や北海道拓殖銀行などを中心とする8金融機関に対する668億円にのぼる債権の利息支払いの猶予を仰ぐ事態に追い込まれた。アルファ・コーポレーションの売上高は100億円程度で、1995年9月以降、金利だけで33億円の返済を迫られ、このままでは経営破綻を免れない財務状態であった。当時、関兵製麦が所有するアルファリゾート・トマム内の施設は、共に関光策氏が社長を務めていたことから、ホテルアルファが運営していたのをアルファ・コーポレーションへさらに運営委託をして、アルファ・コーポレーションの経営を支援していた。しかしながら、関兵馬氏の死亡から社長が兵馬氏の四男である関和治氏に変わった関兵製麦は1997年に、経営の悪化したホテルアルファへの自社所有施設の運営委託を解除し、加森観光の子会社であるリゾートマネージメントへ新たに運営委託を行った。運営委託先の変更に反発した関光策社長を、ホテルアルファの臨時株主総会で関和治関兵製麦社長がホテルアルファの代表取締役社長から解任し、自らが社長の座に就いた。そして、1997年11月の北海道拓殖銀行の経営破綻が、資金不足のアルファ・コーポレーションに追い討ちをかける。アルファ・コーポレーションは総合保養地域整備法(通称リゾート法)の適用を受けて、北海道から地域総合整備資金10億円の無利子融資を受けていたが、同年11月には制度融資の返済が不能となった。そこで、北海道は融資の連帯保証人であった北海道拓殖銀行に6億円の支払いを履行させた。そして、1998年5月、アルファ・コーポレーションは負債1061億円を抱えて自己破産する。同時にアルファリゾート・トマムの会員権などを販売していたアルファ・ホームも負債122億円を抱えて自己破産した。

A アルファ・コーポレーションの破綻処理
リゾートマネージメントは1997年11月からアルファリゾート・トマム全体の運営に乗り出し、1998年4月には従業員を減らし、「ガレリア・タワースイート・ノース」と「ガレリア・タワースイート・サウス」を除くアルファ・コーポレーション所有の施設を休業する措置を取っていた。アルファ・コーポレーションは自己破産した時点で、アルファリゾート・トマムの約4割の施設を所有していたが、営業中であった「ガレリア・タワースイート・ノース」と「ガレリア・タワースイート・サウス」は、夏の繁忙期間終了までリゾートマネージメントの運営により営業を継続することになった。アルファリゾート・トマム内の残り6割の施設は関兵製麦が所有し、こちらはアルファ・コーポレーションの自己破産の影響を受けていない。しかしながら、世間にはアルファリゾート・トマム全体が破綻したような印象を与え、自己破産直後は観光客離れを起こした。そのため、夏の繁忙期におけるリゾート全体の入り込みは前年の同期間との比較で2割の減少となった。1998年9月に「ガレリア・タワースイート」2棟が営業を停止し、アルファ・コーポレーション所有の施設はすべて休業となった。一方、アルファリゾート・トマムの地元である占冠村への影響も大きかった。アルファ・コーポレーションとアルファ・ホームの占冠村に対する債務は4億6700万円近くにのぼっていた。1996年度の村の歳入が41億円なので、歳入の1割以上の債務不履行は占冠村の財政に対して大きな影響を与えることになる。
アルファ・コーポレーション所有の施設に関して月間2000万円の管理維持費がかかるため、西川哲也破産管財人が中心となり売却先を探していた。しかしながら、固定資産評価額が200億円となり固定資産税の負担が重く、不動産取得税や登録免許税などで20億円近い経費がかかることから、売却交渉は難航した。また、北海道ではエイペックスリゾートや札幌テルメなどのリゾートの破綻が重なっており、売却先候補も少なかった。売却先として最有力であったのが、アルファリゾート・トマムを運営しているリゾートマネージメントの親会社であり、ルスツリゾートを経営する加森観光であったようだ。しかしながら、同社は買収にかかわる投資や費用に対して十分な利益を見込みにくいため、慎重な姿勢を取っていた。そこで考え出されたのが、アルファ・コーポレーション所有の施設を占冠村が5億2500万円(購入価格+消費税)で破産財団から買い取り、加森観光へ15年間無償貸与し、加森観光の子会社リゾートマネージメントが運営する。村と加森観光の双方に異存がなければ、貸与期間は継続される。村が施設を購入し、所有することから免税となり、購入に関わる費用と固定資産税の経費がなくなる。その代わりに、加森観光は占冠村へ5億2500万円を寄付する。破産財団は5億円を12の大口債権者へ支払うことで、900億円強の担保権を解除してもらうことに同意を取り付けた。こうしたスキームを基に、1998年12月、占冠村はアルファ・コーポレーションが所有していた施設を破産財団より購入した。占冠村が施設を購入したものの、施設を所有すると補修費などの財政負担増加の懸念と、民間の経済活動に関与すべきでないという考えから、当初占冠村は5年後に加森観光へ施設を売却したい意向をもっていた。しかしながら、加森観光が、5年間で施設の経営を軌道に乗せるのは困難という理由からその意向に対しては反発したため、村が加森観光へ15年間の無料貸与する案に落ち着いた。加森観光にとって有利な契約条件だったため、村議会から疑問の声があがった。そこで、村が所有することで生じる施設維持管理費用や損害賠償支払いなどの一切の費用は、加森観光が負担するという協定が、占冠村と加森観光との間に結ばれた。また、その協定書には加森観光が、リゾートにおける地元雇用の優先、地場産品の購入、リゾート経営に関する地域との話し合いの場設定などを盛り込んでいる。
占冠村が購入した施設の中で造波プール「VIZスパハウス」、ホテル「ヴィラ・スポルトT」と「ヴィラ・スポルトU」の営業を12月25日に再開した。1999年3月には、アルファリゾート・トマムを運営していたホテルアルファが負債総額42億円で破産し、アルファ・コーポレーション関連の企業はすべて倒産したことになる。アルファ・コーポレーションの経営破綻の影響は、同社所有の施設が休止されたこともあって、98年度の入り込み数は前年度と比較して23%減少してしまった。6月には「ガレリア・タワースイート・ノース」と「ガレリア・タワースイート・サウス」が営業を再開する。占冠村全体の収容人員能力8000人のうち、約9割の宿泊施設が稼動したことになる。これにより、アルファリゾート・トマムは表面的には復活したといえるが、リゾートとしての経営が完全に軌道に乗るのはまだ時間がかかると見られている。

3.リゾートの開発と経営
@ リゾート経営躓きの原因
アルファリゾート・トマムは、かってはもっとも成功したリゾート開発として賞賛を浴びていた。それでは、なぜアルファリゾート・トマムは躓いたのであろうか。最大の理由は、アルファ・コーポレーションの過大なリスクを取った戦略である。アルファリゾート・トマムは計画的なリゾートである。まったく何もない占冠村トマム地区にスキーリゾートを創り上げることで地域振興を図ろうとする占冠村と、世界的な大規模リゾートを創造しようと考えた民間企業の協動である。そのプロジェクトを担っていたのは、関兵製麦グループの経営陣の一人であったホテルアルファ社長の若い関光策氏であった。日本でも類を見ない計画された大規模リゾートは、目新しさもあり集客も順調であった。しかしながら、集客の増加以上に宿泊施設の収容能力の増加があった。宿泊施設は投資額も大きく、高い宿泊室稼働率を確保しないと、投資回収が困難になる。リゾートの経営戦略として、宿泊施設の増設は高いリスクを伴うものである。そのリスク管理がアルファ・コーポレーションに関して甘かったのではないかと思われる。具体的な数値によって、アルファ・コーポレーションの戦略がリスキーかを検証してみたい。
1989年12月には地上36階、376部屋を持つ会員制ホテル「ザ・タワーU」が開業する。関兵製麦の所有する「ザ・タワーU」の開業により、コンドミニアム形式の施設を含めてアルファリゾート・トマムの宿泊施設の収容人員はリゾート・オープン時の10倍にあたる4700人強となった。北海道経済部が調査する観光客入り込み数では、占冠村の1989年12月から1990年3月までのスキーシーズンの宿泊観光客数は25万1661人である。そのうち、どれだけがアルファリゾート内に宿泊したかは分からないが、全員がアルファリゾートに宿泊したと仮定すると、1日あたりの宿泊者は2080人。宿泊施設の稼働率は44%程度と推定される。アルファリゾート内の宿泊は高いため、占冠村の他の宿泊施設を利用した観光客がいるであろうから、実際の稼働率は4割程度ではないか。1年を通じてで計算すると、稼働率はもっと低くなる。「ザ・タワー」が開業してフルに稼動した1990年度の占冠村の宿泊客は49万8301人で、全員がアルファリゾート・トマム内で宿泊したと仮定しても、1日当たり1365人。宿泊施設の稼働率は、3割を切ってしまう。スキーリゾートだけあって1月がもっとも宿泊人数が多いが、それでも前述の計算によれば6割程度の稼働率である。もっともこうした稼働率にはコンドミニアムや会員制のホテルが含まれているため、この稼働率をもってホテルアルファトマムの経営に関して言及はできないものの、少なくとも宿泊施設にはこの頃既に過剰感があったのではないかと考える。
このような宿泊室の稼動状況でありながら、ホテル・アルファ社長の関光策氏は関兵製麦とは別にリゾートの拡張計画を立案する。時はバブル経済の頂点の時期、右肩上がりの日本経済を国民の大多数が信じていた時期である。将来的には経済成長がこうしたキャパシティーの過剰を解消するであろうと野心家の関光策氏が予測し、いっそうの成長を求めて拡大路線を取ったとしてもおかしくはない。そして、この時代は、余剰資金が株式市場や土地市場へ流入し、また、ゆとりある生活スタイル確立のために官民あげてリゾートを支援する風潮にあった。関光策氏の野心的リゾート拡張戦略を資金的に支援する経済状況にあったのだ。また、関兵製麦グループ内における関光策氏の位置づけの変化、すなわち同族経営陣の中での権力に関して、関光策氏なんらかのアクションを起こそうと考えたのではないかと推測される。関光策氏はアルファ・コーポレーションを新たに設立し、アルファリゾート・トマム内で積極的な設備投資を行い、自らの利益を拡大しようとしていく。通常の一般向けホテルだと資金回収が長期間にわたるため、アルファ・コーポレーションは会員権方式でホテル利用権を販売することにより、短期間で投資を回収しようとした。前章で述べたルスツリゾートを経営する加森観光も、同様に会員制ホテルやコンドミニアムを計画している。しかしながら、加森観光は慎重に計画を評価し、何度も計画を変更している。また、設備投資もキャッシュフローを重視し、アルファ・コーポレーションの経営戦略とは異なるものであった。1991年12月に地上32階スイートルーム100室を持つ会員制ホテル「ガリレア・タワースイートホテル・サウス」と地上8階200室を持つを会員制ホテル「ヴィラ・スポルトT」を、1992年6月には地上32階100室を持つ会員制ホテル「ガリレア・タワースイートホテル・サウス」を、同年12月には地上6階187室の会員制ホテル「ヴィラ・マルシェ・ホテルアビチ」と地上4階108室の会員制ホテル「ヴィラ・スポルトU」を次々と開業していく。しかしながら、アルファ・コーポレーションにとって最大の不幸は、バブル経済が崩壊していく過程で、こうした宿泊施設が開業したことである。会員権の販売は厳しくなり、借入金金利の上昇が収益を圧迫し、地価の下落は借入金の担保価値を低下させた。アルファ・コーポレーションの資金繰りが一気に悪化したことは容易に予想される。

A スキー場の分析
JR北海道の鉄道が通っているので交通手段は便利であるが、車で行こうとするとアルファリゾート・トマムスキー場は少し遠く不便な立地にあるかもしれない。車を使うと札幌から3時間、旭川から2時間強、新千歳空港から2時間半で、日帰りは避けたい距離である。特に札幌からは山道を走る時間が多く、降雪の多い時期は車で行くのは厳しいかもしれない。そうなると、ある程度滞在日数を取り、アルファリゾート・トマム内に宿泊することになる。何もしないで自然の中でゆっくり休暇を楽しむというライフスタイルは、日本人の中ではあまり根づいておらず、それゆえに、リゾートは魅力あるレジャー施設を提供しなくてはならない。アルファリゾート・トマムが宿泊施設の収容人員を増加させるのであれば、それに伴ってレジャー施設の集客力を高めていく必要がある。占冠村の観光客入り込み数を見る限り、アルファリゾート・トマムは冬期間の入り込みが多く、ゴルフ場や造波プールを作ってもスキーリゾートの性格が強かった。
(図表7) 「アルファリゾート・トマムスキー場索道利用者数の推移」

(図表8) 「アルファリゾート・トマムスキー場のコース図」

アルファリゾート・トマムスキー場の索道利用者数は、オープン以来順調に伸びていたが、バブル経済崩壊の影響で低下傾向に転じた(図表7)。そして、1996年度からは再び増加し、ピーク時と同程度の索道利用者数までに回復している。しかしながら、宿泊施設で見たリゾートの規模からすれば、このスキー場の策道利用者数は少ないといえよう。その理由は、他の大規模スキー場と比較してアルファリゾート・トマムスキー場が競争優位を構築しているとは言い難いからではないかと考える。まず、積雪量がニセコ等と比較して少なく、シーズンが12月中旬から3月末ぐらいまでと短い。そのため、スキーリゾートとしての稼動期間が少ないのである。積雪量が少ないものの気温は低く、雪質の面では良いが、リフトで移動している時間が長いとつらいこともある。また、コースは18と多いものの、コース幅がせまかったり、短いコースをつないだ感じで、あまり滑走の爽快感を感じられるものではない(図表8)。特に山麓部分が緩やかで距離が長くつまらない。ゲレンデもトマム山をピークにするゲレンデと、第4リフトと第10リフトのあるゲレンデが分離しており、コースの数の割には大きなスキー場という感じを覚えないのはもったいない。策道1席あたりの利用者数(1997年度)は年間8万4000人と10万人を割っており、効率は良いとはいえない。もっとも利用頻度の高いと思われるゴンドラ以外は待ち時間も少なく、利用客からすれば快適である。策道施設とコースの接続はいいが、JRトマム駅近くのインフォメーションセンターに下りてしまうと、リフトを利用して滑ってスキーセンターに戻れない欠点を持っていることを指摘しなくてはならない。スキー場自体の拡張計画がストップしているためこうしたコース設計上の欠点があるのかもしれないが、第1リフトを延長するか、その上まで上れるリフトを設置すれば、利用客の利便性が高まるのに残念である。
スキー場の魅力に関してニセコやルスツと比較して弱く、また、スキー場以外の造波プールの料金やレストランの値段も高いので得られる効用に対して遊ぶのにお金がかかる高級リゾートと感じられる。それをアルファリゾート・トマム側でも認識していたのか、レジャーに関するハードの充実と共にソフト面での充実を積極的に行って、集客に努めている。例えば、氷のドームや施設を飾るイルミネーションなどでエンタテイメント性は他のスキー場に対して高い。また、スキーやスノーボードのオフピステツアーや、それ以外の各種の遊び方を提案しており、レジャーのソフト面での充実度は高い。しかしながら、それでも宿泊施設の増加と比べれば、不十分であると考える。レジャー施設を拡充して集客力を高める以上に、宿泊施設を増設して利益を確保しようとしたアルファ・コーポレーションの戦略は、リスクが高く、成功する可能性も低いものだったといえよう。結果として、アルファ・コーポレーションの経営破綻が、アルファリゾート・トマム全体に悪影響を及ぼし、地元経済にも深刻なダメージを与えるものとなってしまった。
B 地域社会へのリゾート効果と破綻の影響
アルファ・コーポレーションの経営破綻があったものの、アルファリゾート・トマムの誕生と成長は、地元占冠村に対して大きな貢献を果たしたと考えられる。まず、北海道の中でも認知度の低かった占冠村は、アルファリゾート・トマムによって、一躍全国的にその名前を知られるようになった。ただし、占冠よりはトマムで知られているかもしれない。そうした認知度の高まりは地域社会に対して、好影響をもたらしたことは想像に難くない。また、数字で表される効果としては、人口の過疎化に歯止めがかかり、1991年の国勢調査では2721人まで人口が増加している。1981年調査時と比較して、7割の増加となっている。しかしながら、アルファ・コーポレーションの経営が傾き始めていた1996年の調査では2104人と減少しており、占冠村のアルファリゾート・トマムの雇用吸収力に対する依存の大きさを示している。人口だけではない。多種の税収、地方交付金、起債などによる占冠村の歳入に関しても、1970年代は10億円に満たない規模であったのが、リゾート計画が動き始めて急増し、1996年度には40億9900万円にまで達している。その後、アルファ・コーポレーションの固定資産税滞納などが響き、2割ぐらい歳入規模は縮小している。商品販売額なども倍増以上となっており、アルファリゾート・トマムの誕生と成長により、占冠村の経済は発展したといって過言ではないであろう。しかしながら、アルファ・コーポレーションの経営破綻から施設が占冠村所有になったことにより、年間3億円程度の固定資産税が徴収できなくなった。この金額は村の歳入の7〜8%にあたるため、大きな痛手となっている。通年の観光客入り込み数に関しても、日帰り客は1990年度をピークにして32%減少の約48万人(1998年度)へ、宿泊客はピークである1992年度の約半分の28万人となっている(図表9)。特に1998年度はアルファ・コーポレーションの破綻によって宿泊施設が閉鎖されたため、前年と比較して12万人減少している。冬期間に関しても前年度と比で1998年度の日帰り客は約10万人、宿泊客は約5万人減少しており、アルファ・コーポレーションの破綻の影響が現れている

(図表9) 「占冠村冬季観光客入り込みの推移」

占冠村の地域経済システムを一つの価値システムと見るならば、価値の産出源はアルファリゾート・トマムの価値連鎖である。アルファ・コーポレーションが倒産したことで、占冠村の価値産出が低下した。占冠村の価値システムとアルファ・コーポレーションの価値連鎖はタイトに連結されているため、アルファ・コーポレーションの影響が、占冠村の価値システムへ強く影響してしまったのだ。アルファリゾート・トマムの事例は、地域社会の経済が過度に少数の民間企業に依存するリスクをあらわしていると考える。不幸中の幸いなのが、過大なリスクを負ったリゾート拡大の戦略がアルファ・コーポレーション単独で行われ、結果としてリゾート開発と所有が2社により行われ、リゾート経営のリスクが分散されていたのである。アルファ・コーポレーションの経営破綻があったにせよ、占冠村は投資以上の大きな果実を取ったと評価できるであろう。今後、アルファリゾート・トマムは、スキーリゾート経営に関してコクドに次ぐ大きな力を持つ加森観光グループ中心の経営により持ち直していくであろう。しかしながら、アルファリゾート・トマムスキー場はハードの面で他のスキー場と比較して魅力に乏しい。それを付加価値のある施設、イベント、各種のサービスなどで補っている。そのため、経営努力を他のスキーリゾート以上にしていかないと、競争優位の確立は難しく、楽観は許されないと考える。(1999年3月調査)