File NO.201 ニセコアンヌプリのスキー場 |
1.ニセコアンヌプリのスキー場の開発と発展 |
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ニセコアンヌプリのスキー場の開発 ニセコアンヌプリにおけるスキーの歴史は長く、昭和3年に秩父宮殿下一行がニセコアンヌプリで登山スキーを楽しんだ記録がある。策道施設を持つスキー場としての開発は、1962年に全日本スキー選手権大会の開催が決まり急速に発展した。ニセコアンヌプリ最初の策道施設は、1961年12月にニセコ高原観光が山田温泉の横、現在のニセコ国際ひらふスキー場フリコの沢に570mと500mのリフトを建設したのである。ニセコ高原観光は策道施設の建設と共に、レストハウスも作りスキー場としての機能を充実した。1965年にはサンモリッツリフトがニセコ高原観光の南側に645mの索道とレストハウスを建設した。策道施設を備えたスキー場の開発が進むに連れて、周辺地域の宿泊施設の建設が少しずつ行われたが、ニセコ地域の急速に発展はしなかった。しかしながら、1970年に冬季国体が倶知安町で開催されることになり、国体のアルペン競技の開催場所であるニセコひらふスキー場(現在のニセコ国際ひらふスキー場)では駐車場の造成、道路幅の拡大、電力の増強など町あげての支援事業が行われた。一方、スキー場内ではニセコ高原観光が3番目のリフトを架設し、第1リフトをダブルにするなど策道施設の充実を行い、サンモリッツリフトはアルペンコースのナイター照明設備を設置した。 冬季国体の成功で注目されたニセコアンヌプリ地域では、国労(国鉄労働組合)共済組合の勤労者休暇村計画や、建設省を中心とした大規模レクリェーション基地構想が持ちあがり、ニセコアンヌプリ地域の総合開発が脚光を浴びた。そうした中、ニセコひらふスキー場で策道を経営するニセコ高原観光は、ニセコアンヌプリ山麓の花園地域の土地を買収し、1973年からゴルフ場を造成し始める。石油ショックによる経済不安でゴルフ場は結局オープンされなかったが、ニセコアンヌプリ地域が通年型リゾートを志向する第一歩となったと思われる。国労共済組合の計画も建設省の構想も結果として実行に移されなかったが、観光地域としてのニセコアンヌプリ地域の潜在的魅力が高く評価されたといえよう。地域としての開発は頓挫したものの、ニセコ高原開発が開発する高原コースとサンモリッツリフトが開発するアルペンコースから成るニセコひらふスキー場は、リフトの増設とコースの造成などで順調に拡張されていく。1971年にはニセコアンヌプリ1000m台地の近辺のゲレンデ開発が許可され、スキー場のスケールが一段と大きくなった。1974年度までにニセコ高原観光は1000m台地を終点とする第6リフトまで策道を増設し、一方、サンモリッツリフトは1000m台地を終点とする第3リフトを新設した。
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ニセコアンヌプリスキー場の発展 ニセコアンヌプリは広大な山で、ニセコひらふスキー場は東斜面で展開しているに過ぎなかった。そこでニセコアンヌプリのスキー場開発の余地に目をつけた北海道中央バスが、子会社中央バス観光開発を通じてニセコ町のニセコアンヌプリ南斜面にスキー場を造成し、1972年にニセコアンヌプリ国際スキー場をオープンする。リフトを5基持つ本格的なスキー場で、雪質の良さも手伝いオープン当初から人気を集めた。ニセコアンヌプリ国際スキー場は山頂に近い地帯でニセコ国際ひらふスキー場と連絡をしていた。スキー場を開発した中央バス観光開発の親会社北海道中央バスは路線バスや観光バスの運行会社であり、ニセコ地域におけるスキー場事業へ進出することで、バス事業とのシナジーを創出することが可能になる。すなわち、スキー場への輸送手段をバス事業が提供可能であるし、反対にリゾートへのバス運行によってバス事業の売上増加が見込める。また、中央バス観光開発は小樽市において既に天狗山スキー場を開発、経営しており、スキー場事業に関するノウハウを持っていた。そのため、北海道中央バスグループの経営資源を有効活用するために、新たなスキー場事業を始めたのであろう。北海道中央バスはニセコアンヌプリ国際スキー場山麓に土地を所有していたが、自らは宿泊施設を建設せず、その土地を賃貸したり、分譲することで宿泊施設を誘致した。宿泊施設を建設すると投資金額も大きくなり、経営が大変なので他企業の力を活用したと考えられる。ニセコアンヌプリ国際スキー場はニセコ国際ひらふスキー場ほど規模が大きくないため策道利用者数は少ないものの、順調に発展を遂げていく。 1970年代後半から、北海道で新たなスキーリゾート開発を狙う西武鉄道グループのコクドが、ニセコアンヌプリのニセコ国際ひらふスキー場とニセコアンヌプリ国際スキー場の間の地域に目をつける。コクドはニセコ町へ協力を要請、ニセコ町からの出資を仰ぎ、コクドが第三セクターニセコ開発を設立した。ニセコ開発は第三セクターといっても、ニセコ町の出資額は100万円、出資比率は最終的には3%程度。同社は実質的にはコクドの子会社であり、同社の経営権はコクドが握っていた。しかしながら、リゾート開発会社を第三セクターにしたことで、保安林の解除や土地の買収に効果があったようである。一方、ニセコ町にとって、開発主体が第三セクターであることから、純粋な民間企業による開発と比較してチェックをしやすいメリットがあった。1982年にはゴンドラ1基とリフト5基を有するニセコ東山スキー場をオープンした。コクドのスキーリゾート開発戦略は、スキー場の山麓にプリンスホテルを建設し、観光客の消費を自社グループの経営する施設で完結させようとするものである。ニセコ東山スキー場でもその戦略は踏襲され、スキー場のオープンと共にニセコ東山プリンスホテルがオープンした。ニセコ東山スキー場は山頂に近い地帯で、ニセコ国際ひらふスキー場とニセコアンヌプリスキー場と連絡していた。また、策道営業終了後のスキーヤーの交通手段やスキー場上部の連絡コースまで行けない初心者のために、ニセコ高原観光は各スキー場を巡回する無料バスを運行し、ニセコアンヌプリの3スキー場を積極的に楽しめるようにした。これはスキー場のネットワークを形成することで、利用者への魅力を高めることになる。ただし、3スキー場は異なる4社が策道を経営していたため、他のスキー場を滑る場合はそのスキー場のリフト券を新たに購入するか、割高になる共通回数券を購入しなければならない。共通回数券は1976年に導入されていたが、滞在型スキーヤーが多いニセコでは敬遠され、あまり利用されて否渇庁である。 ニセコ高原スキー場はニセコアンヌプリの他地域にスキー場がオープンするのに対抗して、策道施設やレストハウスなどを新設し、スキー場規模の拡大と利便性の充実を図り、魅力を高めていった。ニセコアンヌプリは1000m台地まで各スキー場のエリアを広げたが、それより上部にまだ広大なエリアが残されていたため、1980年に出されたスキー場開発規制の規制である策道高度1200mを限度にして、策道経営各社はリフトを1000m台地の上部に架設するようになる。1983年にはニセコ高原観光が高原第7リフトを新設し、1984年にはサンモリッツリフトがアルペン第4リフトを架設し、スキー場のエリアを拡大した。また、これらの新設リフトにより、3スキー場への連絡はより容易になった。しかしながら一方で、ニセコアンヌプリの上部へスキー場を拡大した結果、雪崩の危険性が高まるという問題を生じさせてしまった。スキー場近辺ではペンションや民宿などの集積が形成され、増加する観光宿泊客と彼らの多様化した宿泊のニーズに対応していった。倶知安町とニセコ町は観光振興を図るため、こうした宿泊施設の集積形成に対して道路や水道の生活のインフラストラクチャーを整備して支援した。ニセコ地域には宿泊施設を中心とした集積がいくつかあり、それらが集積ごとにパル共和国、ポテト共和国、ニセコペンションビレッジという名を名乗り、宿泊施設業者同士がネットワークを形成し始めた。こうしたネットワークはニセコ地域を活性化し、地域としての新たな競争優位を生み出した。しかしながら、冬季中心のリゾートの宿命で冬季以外の集客が少なく、個別の宿泊施設の経営を見れば厳しいところもあったようである。スキー場を経営する企業も冬季以外の集客を図るために、ニセコアンヌプリ国際スキー場ではハングライダーやマウンテンバイクの大会を開催するなどを行った。ニセコ東山スキー場を経営する西武鉄道グループは、1994年にニセコ東山プリンスホテルゴルフ場をオープンさせた。また、ニセコ町では町営のテニスコートを造成するなどして、夏季の観光客の掘り起こしを図った。その結果、ニセコ町の冬期間(12月〜3月の4ヶ月間)における観光客入り込み数は(1998年度)、通年の観光客入り込み数に対して日帰り客で47%、宿泊客で50%と、その成果は現れている。倶知安町も同様の傾向にあり、日帰り客で51%、宿泊客で39%となっている。以前は6〜7割だったので、冬期間の観光客入り込み数の相対的に占める割合は低下しているといえる。 倒産した海運会社ジャパンラインのグループ会社であったニセコ高原観光は、1985年に同社の資産を東急不動産へ売却し、ニセコひらふスキー場高原エリアをニセコ東急リゾートが事業継承することになった。東急不動産は東急グループに属し、グループは鉄道会社を中心に東京西部の地域開発を行い成長した企業集団である。グループ内には日本エアシステム、東急観光、各地の東急リゾートや東急ホテルを有し、全国でリゾートビジネスを展開していた。そこで、東急グループ内のリゾート事業のポートフォリオを充実するために、北海道でスキーリゾートを行いたいという戦略的意図から、既に有名スキー場であるニセコ国際ひらふスキー場を経営するニセコ高原観光を買収したようである。1987年には以前国労共済休暇村を大規模に開発しようとした跡地を東急不動産が買収し、新たな開発をニセコアンヌプリにおいて行おうとした。おりしもバブル経済が形成されていた時期で、多くの企業が全国各地で大規模リゾート開発をしようとしていた。1990年5月から、東急不動産はその土地にニセコ高原リゾートを着工する。計画ではスキー場、ホテル、リゾートマンションと別荘、ゴルフ場などを建設し、年間140〜150万人を集客しようとする大規模通年型リゾートを目指した。1991年には高速4人乗りリフト3基、レストハウス、スキーセンターを有するニセコひらふスキー場花園エリアとしてオープンした。しかしながら、バブル経済崩壊によって、東急不動産の開発計画は大きく変更せざるを得なくなり、スキー場以外ではゴルフ場がオープンしたのにとどまっている。 ニセコアンヌプリは、ニセコひらふ高原コース・花園コース(ニセコ東急リゾート経営)とアルペンコース(サンモリッツリフト経営)からなるニセコ国際ひらふスキー場、ニセコアンヌプリ国際スキー場(中央バス観光開発経営)、ニセコ東山スキー場(ニセコ開発)の3スキー場と4策道経営会社が存在している。各スキー場は最上部のリフトを通じて自由にスキー場間を行き来できるものの、策道経営会社が異なるためそれぞれのスキー場でリフト券を購入するか、割高な共通回数券を購入しなくてはならない不便を利用客に負わせていたことは前述したとおりである。そのため、利用客からの不満を解消と、ルスツリゾートスキー場の追い上げに対抗策としてスキー場のネットワーク化による魅力向上のために、1993年12月から「ニセコフリーパスポートシステム」と呼ばれる共通1日券〜4日券と、それに対応した自動改札システムが導入することになった。利用者が共通1日券を購入する場合、4800円と共通パスポートのICカードに対する保証金1000円を支払う。保証金はICカード返却時に返される。リフト券代わりのICカードには情報を書き込み、4時間券から4日券まで設定を変えることが可能である。利用客がリフトやゴンドラに乗車する時は、そのICカードを自動改札機に情報を読み取らせ、改札のゲートを開ける。策道経営各社は利用に応じてリフト料金を分配する。利用客にとっても利便性が増して好ましいし、策道経営会社に取ってもいっそうの集客につながったり人件費も削減できるメリットがある。しかしながら、このシステムを導入するために自動改札システムを各スキー場に52台設置し、総事業費が6億5000万円に達してしまった。利用客の利便性向上による集客の増加と人件費の削減と引き換えに、多額の投資を必要とするデメリットがあった。そのため、4策道会社の内、サンモリッツリフトがニセコフリーパスポートシステムへ参加することを拒否した。サンモリッツリフトはニセコアンヌプリで策道を経営する大手企業の子会社である他社と異なり、地場資本の企業で財務体質が脆弱であった。また、1986年にオープンしたホテルニセコアルペンへの投資が負担になっていたようだ。サンモリッツリフトの経営するアルペンコースは、ニセコアンヌプリスキー場の中央に位置するため、フリーパスポートを持った利用客が誤ってアルペンコースに降りてしまい、アルペンリフトを使えずトラブルになるケースが相次いだ。また、利用客はそうしたトラブルを防ぐため、余分な気を遣う破目になり、結果としてニセコアンヌプリにあるスキー場全体の評判を落とすことになってしまった。 フリーパスポートを導入したシーズンはニセコアンヌプリの3スキー場の索道利用者数合計は増加したが、バブル経済崩壊による影響が深刻化したことと、ルスツスキー場の集客力向上によって、ニセコアンヌプリの3スキー場の策道利用者数は減少に転じた。特にニセコ国際ひらふスキー場の落ち込みが大きかった。ニセコ国際ひらふスキー場では花園エリアオープン以来大きな施設の更新がなく、旧態化したスキー場というイメージをもたれたのかもしれない。1996/1997年のシーズンからサンモリッツリフトが1日券を値下げし、他社も部分的なリフト券の値下げを行った。周辺の宿泊施設では稼働率が低下し、一方で低価格のツアー客を取って稼働率を上げようとする宿泊施設では宿泊客単価を落とし、経営が悪化する宿泊施設が出てきた。そうした状況で、アルペンコースの索道とホテルを経営するサンモリッツリフトの資金繰りが悪化。メインバンクの北洋銀行の関連会社交洋不動産がサンモリッツリフトの営業権を取得し、事業を継承した。交洋不動産は、ニセコアンヌプリの他の索道経営会社と協調する戦略を採用し、ニセコフリーパスポートシステムへ1998年1月から参加することになった。アルペンコースの参加により、ニセコアンヌプリのスキー場間のネットワークが完全となった。アルペンコースは立地上の優位点もあり、ニセコフリーパスポートの恩恵をもっとも受け、1998年の2月、3月の索道利用者数は対前年比で2倍以上も増加した。 しかしながら、ニセコアンヌプリの老舗であったサンモリッツ社の経営破綻以外にも、ニセコ東山スキー場を開発し、索道を運営していたニセコ開発が1999年10月に負債総額25億円を抱えて、清算された。西武鉄道グループのコクドを中心として、ニセコ東山プリンスホテルゴルフ場を1994年にオープンし、1995年にはニセコ東山プリンスホテル新館をオープンするなど、積極的な拡大戦略を取ってきた、しかしながら、ニセコのリゾートの中心となるスキー場事業に関して索道利用者数の伸びが予想以下で、負債の返済にめどが立たなかったようである。ニセコ開発はニセコ町も出資していた第三セクターであったが、1999年3月にニセコ町は出資を引き揚げており、同社は西武不動産の100%出資の子会社になっていた。ニセコ開発の事業は西武不動産が継承し、1999/2000年のシーズンでは一部のリフトの運休と飲食施設の休止などで経費削減に努めることになっている。ニセコアンヌプリのスキー場事業は現在厳しい状況に置かれていると言わざるを得ないが、その一方で夏季の観光入り込みはスキーシーズンの入り込みと同等までになっているなど明るい話題もある。ニセコの自然を楽しめる各種プログラムなどが充実してきたからである。ニセコアンヌプリは北海道のスキーヤーやスノーボーダーにとって特別の山だ、という話を幾度か耳にした。確かにニセコアンヌプリの山頂に立ち、羊蹄山を目の前にして広大なエリアの中深雪を滑ると他のスキー場では決して味わえない感動を得られる。ニセコアンヌプリの各スキー場が的確な経営戦略の下経営努力を続ければ、その将来は決して暗いものではないと思う。
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2.ニセコアンヌプリのスキー場の経営 |
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スキー場の分析
ニセコアンヌプリは1308mのピークを持つ広大な山の東斜面に展開するニセコ国際ひらふスキー場、南斜面に展開するニセコ東山スキー場、南西斜面に展開するニセコアンヌプリ国際スキー場の3スキー場と4索道経営会社から成り、ゴンドラ4基、リフト34基、54コースを持つ北海道最大のスキーエリアである(1999年1月1日現在、図表1)。1日で54コースすべてを滑りきるのは困難である。反面、スキー場の広さから、コースを熟知していないと迷うことになる。もし、自分の上ってきたスキー場へ戻れなくなったら、どこかのスキー場の山麓に下り、ニセコアンヌプリの各スキー場と各コースを巡回している循環バスにリフト乗車1回分の料金を支払って乗れば、元の場所へ戻れる。また、スキーシーズンの長さでは札幌国際スキー場よりは若干短くなるものの積雪は十分であり、シーズン中の降雪は日本のスキー場の中でも有数であろう。そのため、強い冬型の気圧配置の直後には圧雪しないゲレンデにおいて、膝まで埋まるような深雪をシーズン中何度も楽しめる。1月、2月は毎日のように新雪が味わえる。まず、各策道経営会社のゲレンデを中心に滑っていくことになる。ニセコアンヌプリ山麓の地域は、大きなリゾート街を形成している。宿泊施設に関しては高級リゾートホテルから安価な民宿まで幅広い選択が可能である。また、庶民的な価格で楽しめる居酒屋なども充実しており、アフタースキーも十分楽しめる。各スキー場の近辺には温泉もあり、疲れた体を休められる。若いファミリーにとって必要な育児所もある。 もっとも人が集まるのはニセコ国際ひらふスキー場のニセコひらふ高原エリアとアルペンコースである。共に初心者には少し難しい斜度のあるテクニカルなコースが多く、圧雪したバーン、圧雪しないゲレンデ、コブ斜面と多様なコースが楽しめる。特にニセコ高原第7リフトとアルペン第4リフトに挟まれた最上部のゲレンデは1枚バーンで、圧雪しないパウダースノーでスキーヤーとスノーボーダーを魅了する。ニセコひらふ高原エリアはゴンドラ1基、リフト10基、12コースとニセコ地域でもっとも大規模なスキーコースである。最上部のゲレンデまで行くにはゴンドラ、高速4人乗りリフト、シングルリフトを乗り継いで行けるが、各策道の終点と始点の距離が100m〜200mと長いところもあり、接続があまり良くない。しかしながら、最上部から山麓まで滑り込むと標高差940m、滑走距離6000mを楽しむことができる。施設に関しては要所要所にあり、飲食の価格もさほど高くなく充実しているが、昼食の混雑時には収容人員が不足気味である。特徴的なのはゴンドラの山麓ステーションにケンタッキーフライドチキンが出店しており、若者の人気を集めている。アルペンコースはリフト6基と12コースを持っている。山麓から最上部のゲレンデまで行くには高速4人乗りリフト、ペアリフト2本乗り継ぐが、気温が非常に下がるニセコではフード付きの最新のリフトではなく寒い。しかしながら、接続に関してはニセコひらふ高原エリアより良く、また、自然の地形を生かした非常に難しいコースもありマニアックなスキーヤーやスノーボーダーが集まる。ニセコアンヌプリの3スキー場の中心にあたる地帯にあるため、ニセコアンヌプリ国際スキー場、ニセコ東山スキー場、ニセコひらふ高原・花園エリアへ移動するのにもっとも便利である。施設に関しては混雑しているが、設備は充実している。スキーグローブなどを乾燥させられる無料の乾燥機があるのはうれしい。スキー場としては魅力があるものの、従業員のサービスは他のスキー場と比較してあまり良くない。策道施設も旧態化しているものが多い。もっとも新しいニセコひらふ花園エリアは3基あるリフトすべてがフード付きの高速4人乗りリフトで、寒い時期でも快適である。乗り継ぎの接続も悪くない。コースレイアウトは、急斜面と緩斜面の差が激しく、どちらかというと上中級者向けのような感じである。施設は十分でなく、特に山麓は小さなスキーセンターと食堂があるだけで閑散としている。ニセコ国際ひらふスキー場では、もっとも入り込みが少ないようである。 ニセコ東山スキー場は国道5号からニセコ町市街地を抜けて行くが、その道は冬であってもさほど難しいものではない。上部で連絡するニセコ国際ひらふスキー場やニセコアンヌプリ国際スキー場とは車によって、10分程度でニセコ東山スキー場の山麓駐車場へ到着する。西武鉄道グループが開発した高級リゾートなので、ニセコ国際ひらふスキー場とは雰囲気の異なる落ち着いた感じである。ニセコ東山スキー場はゴンドラ2基、リフト8基、8コースを持ち、策道利用者数の割には策道施設が多いが、その理由の一つは少し離れた地域にホテルを新たに建設したため、そのホテル客の移動を確保する目的でゴンドラとリフトを設置しているのである。しかしながら、1999/2000年のシーズンから、リフト2基の運休を決めている。山麓からはゴンドラとリフトを1本ずつ乗り継いで最上部のゲレンデまで行け、寒いニセコアンヌプリでは非常にありがたい。スキー場は、上中級者向けコースが多く、それらとは別に初級者向けの迂回路も向けられているが、コース幅が狭く、曲がりくねっており初級者の技量では迂回路でも少し難しいかもしれない。スキー場の山麓近くまでコース幅のあまり広くない林間コースが続き、広いスキー場という感じをあまり受けない。雪質は良いが、斜度のある斜面が多いことから、若雪つきの悪い場所がある。施設に関しては、比較的新しいスキー場であることから充実している。西武鉄道グループのスキー場らしく、従業員の提供するサービスの質は良い。また、価格の高いのが難点であるが、飲食店も美味しい。スノーボーダーよりもスキーヤーが、北海道内からの利用客よりも本州からのツアー客が多く、全般的にファッショナブルな感じを受ける。ニセコアンヌプリ国際スキー場はもっとも南斜面で、それゆえに多少積雪がニセコひらふ国際スキー場と比較して少ないようである。メインの駐車場から起点となるゴンドラ山麓駅まで距離が多く不便で、多数の車が路上駐車している。これは中央バスが親会社であるから、自家用車で来る利用客を冷遇しているのかと勘ぐってしまう。ニセコアンヌプリ国際スキー場はゴンドラ1基、リフト7基、12コースを持ち、山麓から最上部のゲレンデまではゴンドラとシングルリフトの2本で行ける。そこからは少し難しい斜面が続くが、山の中腹にある4人乗りリフトの終点あたりからは初級者でも滑れるような広い斜面が山麓まで続く。リフトのいくつかには動く歩道のローディング・カーペット付きであり、リフトに乗るのが大変な初心者の使いやすさを考えている。ホテル日航アンヌプリがあるため、本州からの観光客もいるが、中央バスが札幌や小樽から直行バスを運行しているせいか、道内客の方が多いようである。飲食関係もホテル日航アンヌプリのようなリゾートホテル内の高級店があるものの、大衆価格の店が多いようである。
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経営の分析 (図表1)
「ニセコエリアの各策道会社の利用客数推移」
ニセコアンヌプリのスキー場の経営を考える場合、個々の索道経営会社の視点で見ていくものと、3スキー場を合わせたニセコ地域というスキー場集積という視点で見ていくものがあろう。個々の索道経営会社はニセコ地域内で競争と協調しながら、ニセコとしてルスツリゾート、キロロリゾートなどと競争していかねばならないのである。まず、ニセコアンヌプリで策道を経営している4社の索道利用客数の推移をみると図表1のようになる。ニセコひらふ高原エリアの索道利用者数が1984年度をピークに2年連続して大幅な減少に見舞われているが、これは策道を経営していたニセコ高原観光の親会社が経営破綻した影響ではないかと推測されている。その後はニセコ東急リゾートがニセコ高原観光の事業を継承し、策道利用者数は急速に回復した。1993年度のニセコひらふ高原・花園エリアの索道利用者数が増加しているのは、ニセコフリーパスポートシステムの恩恵が、同社がもっとも受けていたことを示している。反対にアルペンコースの索道利用者数は1993年度から大幅な減少に見舞われている。これは同社がニセコフリーパスポートシステムへ参加せずリフト料金の相対的な割高感を利用者へ与えてしまいそっぽを向かれたことと、そうしたリフト料金の割高感からバブル経済の崩壊の影響をもっとも受けてしまったことを原因とするのではないかと考えられる。リフト料金の値下げを行った1997年度のシーズンにアルペンコースの策道利用者数が増加しているのも、それまで策道利用者数が減少し続けた裏返しの現象ではないか。1993年度のニセコフリーパスポートシステム導入時をピークに、ニセコひらふ高原・花園エリア、アルペンコース、ニセコアンヌプリ国際スキー場の索道利用者数は減少しているが、ニセコ東山スキー場の索道利用者数は増加傾向にある。これはもともとニセコ東山スキー場は本州からのツアー客が多かったため、西武グループのニセコプリンスホテルの宿泊料金を値下げして、低価格ツアーを組んみ本州からのいっそうの集客を図り、北海道内からの入り込み減少の影響を相殺できたのではないかと考える。同じように大手資本の東急グループも本州からの集客を強化したが、ニセコひらふ高原・花園エリアは北海道内の利用客も多く、道内利用客の減少をツアー客の増加で補えなかったのであろう。やはり、ニセコアンヌプリ国際スキー場も日本航空のツアー客も多いものの、札幌や小樽からの利用客の方が多く、その減少をツアー客で十分補えなかったのではないであろうか。 次に効率面で各スキー場を分析してみたい。1997年度の策道利用者数を策道施設の乗車定員の合計で除し、策道施設の1席あたりの利用者数を算出することで、索道の稼働率から見た効率性を分析する。策道の速度や策道のレイアウトなどを考慮していないという不備があるものの、策道利用者数に対して策道施設がどれだけ効率よく運営されているかの判断材料にはできると考える。経験的な推定であえて言えば、策道1席で年間10万人が一つの判断基準になると考える。10万人を大きく超えてしまうと、リフト・ゴンドラ待ちが長く、顧客は不満を覚える可能性が高い。反対に10万人を大きく下回ると、効率が悪く収益性は悪くなるであろう。ニセコ3スキー場の中でこの値がもっとも高いのはニセコひらふ高原エリアであり、策道1席あたり年間17万9000人を運ぶ。施設の稼働率は良く経営的には望ましいものの、ゴンドラ、フード付き高速4人乗りリフトなどで待ち時間が長く、顧客としては改善を求めたい。一方、ニセコひらふ花園エリアでは策道1席あたり年間7万9000人を運ぶ。待ち時間があまりなく、空いている印象を受ける。反面、策道施設自体も新しく減価償却費も多いと推定されるので、この数値だと収益的に懸念があろう。サンモリッツリフトの索道1席あたりの年間利用者数は7万3000人である。この値ならば空いているかというと、メインの索道であるアルペンセンター4に人が集まり、待ち時間が結構長いのでイライラすることが多い。施設自体が古いから問題ないのかもしれないが、アルペンコースにおける他のリフトの収益性はあまり良いとはいえないのではないか。ニセコアンヌプリ国際スキー場の策道1席あたりの利用者数は年間10万2000人で、待ち時間はそれほど長くなく、また収益性もまずまずと考える。ニセコ東山スキー場は策道1席あたりの利用者数は6万3000人と、他のニセコのスキー場と比較して少ない。これではスキー場運営の固定費をカバーするだけでも大変なのではないかと考える。効率性を上げるためには策道利用者数を増やすか、策道の休止や廃止などで数を減らすかである。スキー離れや消費不況では策道利用者数を大幅に増加させて収入を上げるのは困難で、策道施設の数を減らし変動費を削減するのが手っ取り早いであろう。策道利用者数が増加傾向にあるニセコ東山スキー場が、1999/2000年のシーズンからあえてリフト2基を休止し、ゴンドラ1基とリフト2基を繁忙期のみの運行とするのは、こうした策道施設の稼働率の現状から判断したのであろう。しかしながら、策道施設の効率を上げようとして、リフト待ちが常態化したりリフトやコースの接続が悪くなると顧客満足が低下し、長期的にはマイナスになることを認識しておかないとならない。
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地域の分析 ニセコアンヌプリだけでニセコひらふ国際スキー場、ニセコアンヌプリ国際スキー場、ニセコ東山スキー場の3スキー場が営業することになったが、互いに競争するだけでなくスキー場集積として相乗効果を発揮し、ニセコというブランドの下にスキーヤーを惹きつけ共に発展してきた。ニセコアンヌプリ各スキー場はニセコアンヌプリへ来たスキーヤーを自社のスキー場を利用してもらえるように、互いに競争してスキー場の魅力を高める。スキーヤーはそれに惹きつけられて来場する。そうした賑わいが話題となり、いっそう多くのスキーヤーはニセコアンヌプリに関心を持ち、来場したいと考える。そして、増加するスキーヤーを目当てに宿泊施設、飲食施設、娯楽施設が続々とでき、ビジネス機会を見出した企業や個人が新しいアトラクションを提供するようになり、観光地域としての発展していく。こうした好循環がニセコ地域を全国でも知られるスキーリゾートとしてのブランドを確立し、地域としての競争優位を構築していったのだ。こうしたネットワークはこれまで競争を主とした宿泊施設間で協調の側面を生み出し、一方でネットワーク間での競争と協調を新たに生み出した。それが新たにニセコ地域の活性化を生み出し、他のスキーリゾートとは異なった魅力と競争優位を創造したと考える。少数の企業がリゾートを開発、運営した地域とは異なった発展の仕方をしてきたと考えられる。規模、目的、利害の異なる多数の民間企業や個人が自発的にニセコ地域へ参入することで整然とした発展ではなかったが、異質性の共生と競争の中から革新や正のエネルギーが生まれ、集積内部のネットワークで正のフィードバックが生じ、それがニセコ地域を北海道有数のリゾートに育て上げた。最近多くなってきた夏季に行われる様々なアトラクション・プログラムは、ニセコ地域へ外部から参入した異質性を持った外国人アウトドア愛好者がニセコの自然に触発され、事業化したものである。それがニセコ地域の他の人や組織に波及し、ニセコ地域経済へ影響を与えるほどになっている。正のフィードバックから生まれたイノベーションであろう。反面、市場メカニズムによって発展してきたニセコ地域を取り巻く外部環境が悪化すると、ネットワークで連結された集積内の組織の中で負の連鎖が伝播し、ニセコ地域の集積の中で負のフィードバックが起こる。そうすると、多数の異質の組織によるネットワークの集積では負の連鎖をとどめられる強力な組織がなく、負のエネルギー増加傾向に中々歯止めが効かないというデメリットが生じてしまう。倶知安町とニセコ町の観光客入り込み数の合計で見ると、冬期間(12月〜3月)の日帰り観光客入り込み数は1992年度を最高として、宿泊観光客入り込み数は1990年度を最高として、直近2年間は回復傾向にあるものの低迷している(図表2)。単一事業主体が経営するリゾートのある留寿都村や赤井川村が現状維持か増加傾向にあるのとは対照的といえる。そこで必要なのが協調や調整の場であるが、ニセコ地域で重要なプレイヤーとして考えられるニセコアンヌプリのスキー場間では、ニセコフリーパスポートシステムの協議会が協調や調整の場としてその機能を果たしているようである。1999/2000年のシーズンから「UNITED
GELANDE
NISEKO」をキャッチフレーズに各種PRや、ニセコエリア3スキー場の共同のホームページを立ち上げている。この協議会がさらに他の宿泊施設などの協調・調整機関や行政と連携することで、再び正のフィードバックへ回復する軌道に乗せることが求められる。
(図表2)
「ニセコエリアの冬季入り込み」
(図表3)
「ニセコエリア3スキー場とルスツリゾートスキー場の相対的マーケットシェア」
ニセコ地域の発展は行政の振興政策の結果というよりは、市場メカニズムによってニセコ地域が民間企業等によって選択され、民間活力によって成長してきたといえる。あくまで主役は民間であり、行政はニセコ地域が健全な発展を遂げるために支援をする脇役に徹している。倶知安町とニセコ町が自ら主導権を握りニセコを開発してきたのではなく、地域発展のインフラ整備を行い、ニセコブランドを全国的に認知してもらうための窓口であり、ニセコ地域に新規参入する民間企業の入り口役となり、ニセコ発展を支えてきたのである。しかしながら、近年では加森観光が経営するルスツリゾートの追い上げにあって、ニセコ3スキー場を1とした時のルスツリゾートとの相対的マーケット・シェアは上昇傾向にある(図表3)。異質の多数の企業や自営業者からなる集積のネットワークで発展してきたニセコ地域は、まとまってルスツリゾートに対抗することがその成り立ちゆえに難しい。そこで、行政の役割が重要になる。集積のネットワークを統合するための場を提供したり、既にある協調や調整の機関を支援することである。また、ニセコ地域の地方自治体同士も協調して、ニセコ地域の発展に努めることであろう。ニセコ山系観光連絡協議会とニセコ山系広域観光推進委員会が発行している「NISEKO
EXPRESS」という広報雑誌は、地域の協調と統合の具体的成果として評価できるであろう。ニセコアンヌプリは地域の競争優位の源泉となりうる貴重な資源である。これまでニセコ地域が構築してきた競争優位を維持していくために、ニセコの集積のネットワーク内部を統合し、長期の視点で総合的な発展を行政は考えていく必要があろう。(1999年11月調査)
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