あじさいの会を立ち上げたものの、建設会社に勤務した事のあるメンバーも板が、誰も本格的なパークゴルフコース造りのノウハウを持っていなかった。また、造成するための資金もなかった。そのため、当初は雑草を刈って、少し整地して遊ぼうという程度だった。メンバーは既に定年などで仕事を退いていたので、試行錯誤しながら、まず、札幌盲学校のグラウンド内にパークゴルフコースを造成し始め、2001年9月に9ホールを完成させてそこを平原コースと呼んだ。資金は会費として少しずつ集めた。2002年の4月にさらに9ホールを追加造成し、完成させた。ここは札幌盲学校の生徒が中心になって使用するため、週末に限って、あじさいの会の管理の下、あじさいの会会員へ開放した。
札幌盲学校には、校舎を建築したとき、資材や廃材を置いていて、そのままになった荒れ地があった。あじさいの会は札幌盲学校の許可を得て、そこにもパークゴルフコースを造成する事にした。荒れ果てた土地で、コンクリートの廃材や大きな石などがあり、メンバーは毎日、朝から晩まで慣れない肉体労働を、専門の道具などなかったので倍は苦労しながら行っていたが、苦痛ではなかった。むしろ、仲間と共通の目標に向かって苦楽を共にする楽しさを感じていた。あじさいの会のメンバーの中から、作業の合間に雨風をしのげるクラブハウスを欲しい、という意見が出てきたので、船戸さんが旧知の北清企業の社長に産業廃棄物としてプレハブハウスがないかと尋ねたら、中古のプレハブハウスを寄贈してくれた。そのプレハブハウスの中で休憩中、メンバー同士で話していると、最初は江別市の西公園にあるグリーンボール場程度になればいいと言っていたのが、芝生の立派なパークゴルフコースを造ろうと夢が次第に膨らんでいった。
しかしながら、良いパークゴルフ場を作ろうとすれば、整地、芝生の種まき、芝育成のための肥料、などを建設会社や農家へ外注するしかなく、その費用は120万円かかることがわかった。8人のメンバーはいずれも既に仕事をリタイアした身。貯金や年金があるといっても120万円をメンバー内だけで集めるのは大変なので、私募債を発行し、調達することになった。まず、メンバー8人で3万円ずつ出し合った。残りを15〜16名の地域住民が1口5000円(賛同金)を出資してくれ、なんと120万円が集まった。夢創造(ゆめづくり)という会員の知り合いの会社へ発注し、そこが窓口になって下請けを使って、すべての作業を行ってくれた。また、建築重機で地ならししてくれた地元の住吉産業の社長が、あじさいの会の活動に感動して、プレハブを新たに寄附してくれた。2001年10月に、土地の整地が終了した。スタート台はメンバーの知り合いの企業から寄附してもらった。
土地の整地は終わったが、問題は芝生を植え付け、育てる事であった。残念ながら芝を育成するための水道設備がなく、このままでは芝生を育てるのが大変であった。また、芝生を管理するための農機具もなかった。2001年10月に、船戸さんは江別市の広報で助成金の告知を見つけた。江別市がふるさと創世基金1億円を基にし、市民活動の補助をするための助成金である。早速、船戸さんは江別市に、水道設備70万円、スプリンクラー70万円、芝刈り機100万円で合計234.9万円の助成金を申請したが、こうした活動に助成した例がないということで、窓口になってくれたスポーツ課からは取り下げて欲しいと言われた。納得がいかない船戸さんは、申請を却下する理由を文章で開示して欲しいと迫ったところ、助成金の運営を行っている久保江別市政策審議室長があじさいの会の活動成果を高く評価し、企画課で引き受けると言ってくれた。2002年5月に234.9万円の助成金許可通知が来た。すぐさま工事を発注し、夏の芝の養生に間に合わせた。
芝は1年間、熟成し、オープンは翌2003年5月頃を目途にすることにした。芝以外に、スタート台、ホール、案内板等々の備品が必要で、最初はそれらを手づくりしようとしたが、5月のオープンに間に合わないことがわかった。会費を3000円から5000円に値上げして資金を集めようという案を役員会が提案したが、否決された。そこで、企業へ営業をかけ、企業広告(寄附)は11社、101万円集めた。その結果、手づくりという理念には反するが立派なコースが完成し、2003年5月、かつて荒れ地がパークゴルフコースとしてオープンし、山岳コースと呼ぶことになった。
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