File NO.104 東和電機製作所
1.沿革
@ 会社の設立とイカ釣り機による成長
 
造船業の函館ドックで電気技術者として勤務していた浜出慈仁氏が、1948年に函館ドックの下請けとして船の電気回りの部品を製造する電元精器を設立したが、収益性の低い下請け仕事がほとんどであったことと、大手企業と差別化ができず1954年には倒産へ追い込まれた。再び同じ事業で起業し従業員数20名ほどの企業になるが、函館ドックからの注文が不安定なこともあって、資金繰りが悪化し、1962年に二度目の倒産を喫する。三度目の正直とばかり、1963年12月に再び起業する。電気部品、真空管、自転車など様々な部品を製造し、生き残りをはかっていたが、いつかは自らのブランドで製品を販売したいという強い希望を持っていた。三度目の起業を果たした頃、松前でイカ釣り漁を営む親戚から、丈夫なイカ釣り機を作ってくれと依頼され、元来魚釣りが好きな浜出社長は商売のあてはさほどなく開発を始める。当時、大阪のサンパチという会社が機械式イカ釣り機を開発し、機械式イカ釣り機が普及しようとしていたころであった。浜出社長は1969年にラセン軸を工夫した「はまで式イカ釣り機」で特許を取り、1971年にはモーター付きの商品にして、やっと発売にこぎつけた。「はまで式イカ釣り機」の持つ省力化、漁獲率向上、耐久性の利点が認められて、1973年から全国漁業協同組合連合会がこのイカ釣り機を販売することになり、イカ釣り機を生産していた企業は全国で30数社、函館市内でも4社あったが、1970年代中盤には国内市場の7割を獲得する大ヒット商品となった。東和電機製作所の基盤はこのときできあがったといえる。同社の躍進の理由は、製品自体の性能が良く、製品は特許で保護されていた。そして、製品を全国漁業協同組合連合会が積極的に販売してくれたことがあげられる。また、同社は顧客のニーズに応えられるよう、1970年頃から自前で漁船を保有し、製品の開発に役立てる。イカ釣り機は海上で使用されるため、トラブルが発生しがちである。同社の製品にもトラブルは生じたが、他社とは異なり同社は顧客からの苦情に対してスピーディーに対応し、解決したことも、顧客忠誠心を高めることになった。
 1981年、函館の別の会社が断ったマイコン制御自動シール発券装置製造を、全くの門外漢であるにもかかわらず、売上が苦しかったせいもあるが受注した。この時は浜出社長の強力なリーダーシップの下で、不可能と思える注文を、全従業員が一致団結して、1ヶ月で製品を開発し、1000台を生活協同組合へ納入するという離れ業を見せた。このことは社員全員にとって大きな自信になり、挑戦的な組織文化の形成を促進したようである。マイコン制御自動発券シールのような、突発的なビジネスとは別に、イカ釣り機と並ぶ別の事業を育成する必要を浜出社長は以前から感じていた。1982年2月に、イカ釣り機の技術を応用して鶏ふん処理機を開発し、環境分野への進出をはかった。イカ釣り機は需要がイカ漁の盛んである春から夏にかけて集中するため工場の稼働率を平準化したかったこと、注目を集めていた環境分野へ多角化してイカ釣り機製品へ依存するリスクを減らすこと、技術のシナジーがあり製品開発のコストが相対的に低かったこと、などから鶏ふん処理機で多角化を図ったのである。製品に関する技術的シナジーはあったが、肝心の需要が多くなかったようで売れず、製品はお蔵入りになった。一方、主力製品であるイカ釣り機をベースに、イカ釣り機の製品ラインを広げて売上を増やそうとした。1982年2月には漁業者向けに開発したが漁業者のニーズとは合わなかった製品を、イカ釣り・魚釣り兼用の手動式リールとして「釣天狗」の名前でレジャー向けに発売したが、既存製品よりも安めの49,000円としたものの売れなかった。それ以外の製品として、開発を進めていたジャガイモ自動選別機の技術を応用し、ホタテ貝の耳釣り養殖で使う手動式の穴あき機を発売した。この年には、中小企業庁の発明補助金820万円を獲得し、よりいっそうの省力化と生産性の向上が達成できるイカ釣りロボットの開発に着手した。翌1983年9月にマイコン制御による「はまで式イカ釣りロボット」(商品名「イカロボ」)の開発に成功し、従来品よりも9万円高くなるが1台42万円で販売を開始することになった。積極的に製品開発をする一方、限られた国内市場だけでなく海外へ積極的な営業拡大をはかった。輸出自体は商社を通じて1975年頃から始めていたが、世界的にもイカ釣り機を開発しているメーカーが少なく、輸出による売上はコンスタントにあがっていた。特にこの1983年度には標準型イカ釣り機「MD -3SE 」をポーランドと台湾へ各200台ずつ、計400台を輸出し、輸出売上を伸ばしていった。

A 社長の交代と新しいリーダーシップ
 
1984年に東和電機製作所は、大きな問題に直面する。創業社長であった浜出慈仁氏が68歳で突然死去したのである。息子の浜出雄一氏は同社の研究開発と設計を担っていたが、36歳とまだ若く経営に関して経験が十分でなかった。しかしながら、いとこであり会社の総務関係の職務を担っていた浜出雄三氏(現常務取締役)がサポートするため問題はないだろうということで、浜出雄一氏が2代目社長へ就任した。浜出慈仁前社長はトップダウン型リーダーシップを取る一方、従業員は前社長を「オヤジ」と呼ぶ関係を築いていたので、二代目社長は非常に苦労しそうであった。そこで、浜出雄一社長は研究開発の責任者として従業員と共に働いていたことを活かし、従業員とのコミュニケーションを大切にする経営スタイルを持つことで、リーダーシップを有効に機能させる努力をした。その一例が、従業員の自主性を引き出すために、やりたい仕事を申告させ、なるべくそれを尊重しようとする制度である。また、研究開発では特に従業員のアイディアを殺さないように自由な雰囲気を作り、アイディアがある場合にはすぐに議論できるよう柔軟な姿勢をとった。
 1984年11月、手作業に比較して3倍の生産性向上をもたらすジャガイモ自動選別機「ポテーラ」の商品化成功し、農業関連への多角化を進める。この製品も農業をしている親戚からの要望に応えて作られた製品である。1985年12月、テクノポリス函館技術振興協会から研究開発型起業育成資金制度による助成金100万円を受けて大型船用「ウインチ用タコメータ」を開発することになった。製品は大型船が売れていないこともあって、大型船用の部品も売れなかった。1987年11月、老齢化が進む沿海漁業者のニーズに応えて、自動イカ釣り機をベースに自動マグロ釣り機を開発した。1台50〜60万円で年間100台出荷の予定である。この機械は道内や青森県の近海マグロ漁船でよく売れ、新型機が1995年に発売されるまで継続して生産された。同年12月に、テクノポリス函館技術振興協会から研究開発型起業育成資金制度による助成金100万円を受けて、北海道工業技術センターの指導を受けながら、バーコードを利用して獲った魚を集計処理する魚類ラベル判則装置の開発を始める。函館では数少ない研究開発を積極的に行う企業であったので、こうした公的資金援助を受けることが多い。公的助成を上手に活用し、新しい技術を開発して多角化のシーズにつなげようとするのは同社の研究開発戦略であった。もちろん、公的助成を受けられる技術開発力が同社にあったからこそ、こうした戦略が採用できるのはいうまでもない。
 1988年3月、東和電機製作所の戦略にバリエーションが生まれた。これまでは自ら製品を開発し、販売していたが、新規に導入したNC 付き大型工作機械の稼働率を高めるために、金属材料の受注加工事業へ参入したのである。設備などの導入で約1億円のコストがかかったが、将来的には年間1億円の売上を見込み、受注加工を会社の売上の3割までに高める目標を持っていた。NC付き大型工作機を導入した当初は函館近辺では、こうした工作機を持たない中小企業から受注加工があったものの、NC付き工作機械が普及するに従って、受注加工は少なくなっていった。1988年1月期の決算では、東和電機製作所の売上高はイカ釣り機の高い市場シェアを背景にして大型船向け、中型船向け、小型船向けがまんべんなく売れ、輸出もソ連、韓国、ニュージーランド向けが伸びて売上の11%に達するまでになった恩恵で、売上高は26億7000万円にまで達した。1989年3月、函館市へ進出してくる携帯電話部品の晶体振動子製造最大手である日本電波工業の下請け募集に応募した東和電機製作所は、関連性の薄い事業内容ながら高い技術力が評価され水晶の研磨・加工を受注した。日本電波工業から受注した仕事は、既存事業とは大きく異なるため、100%出資のトウワ電子工業を設立した。会社といっても、実際に働いているのは東和電機製作所からの出向社員とパート従業員2名の小所帯でスタートした。技術的にはシナジーが少ないものの、大企業の下請け事業をすることで大企業の経営管理を組織学習し、本業の管理システムへフィードバックすることで組織能力を高めた。同年8月、生産効率向上のために、3,600万円を投資してCAD (Computer Aided Design)とCAM(Computer Aided Manufacturing) を導入した。浜出雄一社長が研究畑出身であるため、研究や設計部門に対する投資が積極的に行われていた。こうした製造分野での着実な進化を遂げる一方、以前は100台程度の全自動イカ釣り機の韓国向け輸出が、韓国のイカのブームによって1989年に500台、90年の韓国向け輸出は1,000〜1,200台を見込むようになっていた。重要部品は日本から輸出し、他の部品は韓国で生産し、組立もコストの安い韓国で行う方式が採られた。
 1990年代に入り、日本の金融市場においては変調が始まっていたが、まだ日本の社会はバブル経済の熱気に包まれていた。1990年11月、製品の付加価値を高めるために、高性能素材であるCFRP(Carbon Fiber Reinforced Plastic) 製のイカ釣り機を開発した。CFRP は函館市が産業振興のために力を入れていた素材で、それを同社が使用途を示す意味もあった。結局、CFRP をドラムに使ったイカ釣り機は、実用化のために改良を重ね1995年に発売されることになった。翌12月、熟練者の手作業よりも2倍近い生産性を持つホタテ貝の耳釣り養殖で使う自動穴開け機を開発し、1台155万円で91年2月から出荷を予定した。ホタテ貝の養殖は道南で盛んであったが、面倒な作業が多く、そこに自動化や省力化のニーズがあったのである。この年もテクノポリス函館技術振興協会が創設した地域技術起業化助成事業から、東和電機を始めとする4社のグループが助成金400万円を獲得した。本社社屋は隣にあった別の工場の事務所を買い取ってそのまま使用していたため旧態化していたが、1991年7月、会社が成長するに従って社屋が手狭になったのをきっかけに、総工費1億5000万円かけて新社屋を完成させた。

B 円高をものともせず売上高は過去最高
 
新社屋の完成した同じ月に、中小企業事業団の委託で熊井合金鋳造所とバーコードラベルの発券装置、冷凍されたラベル読みとり装置、集計管理装置を一体化した装置を共同開発することになった。これは10年前に生協へ納入した自動発券シールの技術を利用したものであったが、景気の状況が悪くなってきていたため、テストだけで終わってしまった。また、その年の12月、東和電機製作所は、函館船網船具が中心となって計画したCFRP 製の漁船を開発するため設立された「スーパーマリン開発協同組合」へ参加することになった。この事業協同組合は、函館と大阪の6中小企業からなるもので、中小企業同士、自社の得意な技術で協働し、競争優位を構築する戦略を採ったのである。この共同事業は中小企業庁と北海道の知識融合開発事業に認定され、年間1,900万円の助成を3年間受けることになったが、東和電機製作所は市場動向の情報を提供するにとどまっていた。
 1990年代中盤、日本経済はバブルが崩壊し景気後退期に入っていたが、それに追い打ちをかけるように円高が進行し、$1=\100を切ってしまった。円高は輸出採算性を悪化させるため、中小企業の中には円高不況で倒産する会社や、工場を海外移転させる会社がでてきていた。東和電機製作所は売上の4割程度を占めるまで輸出の比率が高くなっていた。特に中国向けは、同社が以前世話をした中国人のネットワークによって、売上の1/4を占めるほど、重要な地域になっていた。高い輸出比率によって円高は傾斜の経営へ影響を与えたが、経営を極端に悪化させるほどではなかった。それは、イカ釣り機に関しては世界で2社しか生産しておらず、同社が市場の7割のシェアを支配していたため、価格決定権はメーカー側にあったからである。同社は円建てベースで輸出しており、直接的な円高の影響はなかったものの、現地の輸入代理店から出荷価格の引き下げがあり、それに応じて多少利幅が減った程度の影響にとどまっていた。
 1993年に、水産資源保護の観点からアカイカ流し網漁が禁止となったため、イカ釣り漁へ転向する漁業者が増加し、イカ釣り機の需要が増加し始め、円高による採算性悪化を相殺した。そのような状況で、1995年2月、CFRP 製のドラムを使用して既存製品の付加価値を高めたイカ釣り機が本格的に販売開始となった。販売価格は1台60万5,000円で従来型より3万円高になったがその耐久性から人気を博した。そして、1996年1月期の決算で、東和電機製作所の売上高は創業以来最高となった。1996年1月、函館特産品食品工業協同組合と東和電機製作所は、イカの内蔵切り取りから耳の切り落としまでの全行程を全自動で処理する機械を共同開発した。この製品は加工業者からの要望に応じたもので、特定中小企業集積活性化事業の承認を得て2年間で開発に成功し、全行程を自動化できていないライバル企業に先んじられた。処理速度は従来機の毎分36匹(手作業では12〜18匹)から46匹へアップした製品を3月に発表した。しかしながら、イカの加工業者の加工プロセスは標準化されておらず、こうした統合された大きなシステムを導入できる加工業者は限られており、販売は伸び悩んだ。
 こうしたイカ釣り機以外の漁業関連機器で比較的売上が多かったホタテ貝機器の分野で、三菱マテリアルがホタテの穴開けから貝をロープにつるす一連の作業を自動化する新型機を開発、泰東製鋼函館出張所を通じて製品が発売された。東和電機製作所の自動穴開け機は1台400〜500万円で安いが、このライバル商品に対して技術的に遅れをとってしまった。東和電機製作所も同じような機械を補助金の支援で開発していたが、補助金を使って開発した技術の製品化に関して制約があったため、製品化が遅れていたのが最大の理由であった。しかしながら、ライバル商品は製造者と販売者が異なり、機械の故障に対するアフターサービスが統一的に行えず、大きな市場変動にはつながらなかったのが、東和電機製作所にとって幸いであった。東和電機製作所は漁業関連機器を開発と生産というドメインを中心に活動していたが、中国大連でサキイカ製造の合弁会社を1996年に設立した。これはイカ釣り機の輸出を通じて中国と関わりが深かった同社へ中国からアプローチがあったからである。同社にとっても、イカ釣り機の需要を増やすにはイカの消費を増やさなくてはならず、そのためサキイカの製造という今までのドメインの基軸から離れた事業に手を出しようである。1997年2月、製品化で遅れをとった、ホタテ養殖の貝殻穴開けからロープへの取り付けまでの工程を処理する全自動装置を開発、月産15〜16台で生産を始めた。価格は1台495万円ながら、2ヶ月で国内(北海道噴火湾沿岸)とカナダの漁業者から50台を受注し順調な滑り出しを見せた。しかしながら、この全自動装置を使用した養殖ホタテ貝が死んでしまう確率が高く、需要は尻すぼみになり、1992年に出した一部自動化した既存製品の方が売れ続け、新製品は1億円近い損失を出してしまった。
 1997年6月、イカ釣りに大幅な効率をもたらす液晶パネル付きイカ釣り操業制御一括管理装置「イカロボマイティー」を開発した。顧客の間における製品への評価は高いものの、価格は親機130万円から、子機63万8,000円と従来機種より高く、イカ市況が低迷していることから売れ行きはいま一歩であるようだ。1998年9月、科学技術振興事業団の助成と北海道大学水産学部の協力で、GPS を利用した海難救助支援システムを開発した。これは浮力のある安全服にGPS 受信装置と通信装置を装着し、海難事故にあった場合の遭難者の場所を確認しやすくするものである。この製品は東和電機製作所のこれまでの技術的関連性が薄いものの、浜出社長が海難事故で亡くなった漁師の家族が悲しんでいる姿を見て、開発する気になったものである。ただし、GPS 使用に関わる行政の目に見えない規制と技術的課題から、製品化にはまだ時間がかかりそうである。同年11月、北海道中小企業振興基金協会から創造的中小企業育成事業の研究開発補助事業として、サンマの集魚灯開発が700万円の助成を得られることになった。1999年8月、北海道地域技術振興センターから総合商社の半田機械器具が中心になって、精密機械のコムテック(函館市)、北大水産学部、東和電機製作所が共同で行う「小型フライヤーを内蔵した特殊自動販売機及び専用商材の開発」(総事業費3750万円)が2500万円の助成を受けることに決定した。翌9月には、道立工業支援センターと共同でイカを切断せずにスルメ状にする自動加工機を開発した。この機械の導入により、1時間で400匹処理する従来の手作業から、自動化によって5倍に生産性向上することになったが、価格は1台900万円と高いことと、多様なサイズのイカを処理するのが難しく、普及には時間がかかりそうである。2000年4月、道立工業支援センターと共同で活魚へ休眠誘導剤を注射する自動注射装置を開発に成功した。この方法で活魚の物流コストを低減できるようになる。東和電機製作所のイカ処理の技術をベースにしており、実用化されれば鮮魚の流通に大きな影響を与える可能性がある。同年6月、 2年前から開始したサンマ漁向け集魚灯の開発が成果を出した。既存の白熱電球の8倍にもなる明るさで、商品寿命も10倍以上の3〜5年。価格は40万円だが、初年度50台の販売を目指す計画である。
2.経営戦略
@ 事業環境と多角化
 
日本は四方を海に囲まれ水産業は盛んであったが、食生活の変化、200カイリによる遠洋漁業の制限、水産資源の減少などから日本の水産業はその地位を低下させてきた。そうした産業の流れに加えて、漁業は仕事がきつく、若者がなかなか漁業の仕事をしたがらないため、漁業従事者の高齢化と後継者難が生じていた。そうしたことから、漁業の省力化と自動化へのニーズは高かった。東和電機製作所はイカ釣りで有名な函館に所在し、イカ釣り機の市場に近かったことから、顧客とのコミュニケーションが取りやすく、市場の動向がよく理解できた。同社の前社長と現社長共に、現場重視を重視した製品開発を行っており、同社自身もイカ釣り漁船を3隻所有し、現場で製品開発と実験を行うといった徹底して顧客の立場に立った製品開発を行っていた。こうした顧客ニーズを的確につかんで新製品開発へフィードバックする努力が、いち早く省力化や生産性の向上を可能にする製品を発売することにつながり、同社の高い市場シェア獲得に貢献した。また、現場に密着することでイカ釣りに関する漁業者の暗黙的知識を学習し、コンピュータ制御された自動イカ釣り機のプログラミングに活用され、製品の完成度を高めた。漁業関連機器は海上という条件の良くない場所で使用するため製品のトラブルも多く、業界における成功の鍵の一つは総合的アフターサービス体制といえる。同社はトラブルがあると、営業マン、製造技術者、設計技術者がチームを組んで素早く対応にあたった。こうした顧客からのクレーム処理の過程が顧客から高い信頼を得ることになり、加えて顧客ニーズと製品改良の情報を獲得できたことが、ライバル企業との競争に勝ち残った一つの理由であろう。また、専門外の事業分野に関しても、顧客からの要望で柔軟に取り組むことで、新しい事業につながったり、新技術の蓄積につながっていった。
 しかしながら、イカ釣り機の販売動向はイカの市況に大きく影響を受ける。また、東和電機製作所の売上の85%はIC 化されたイカ釣り機、イカ自動皮むき機、イカ自動耳取り機といったイカ関連機械であるため、同社の売上は不安定になる。前社長も現社長も、イカは不漁もあるので、イカ釣り機械に重点を置きすぎるのはリスクが高く水産関係以外にも多角化したい、という意向を強く持っていた。同社はイカ釣り機以外に、イカの処理装置などイカ釣りに関するワン・ストップ・ショッピングを狙った、製品ラインの多様化で売上拡大を図った。イカ釣り機の市場で7割を支配している企業故に、イカ釣り関連の製品では高いブランド力とを有していると考えられ、イカ釣りに関する製品ラインの多様化は製品間のシナジーの観点から望ましいものの、イカの市況に左右されることにはかわりない。そこで、こうしたイカ釣り機とは全く異なる分野や、技術的な関連性の薄い製品を開発し、早くから経営の安定をを試みていた。鶏ふん処理機、じゃがいも自動選別機、マグロ自動釣り機、ホタテ貝穴あけ機などに手を染めたが、ホタテ貝の穴開け機以外はイカ釣り機と並ぶ主力事業にはなり得なかった。その理由はイカ釣り機の競争力があまりにも強く、経営者の多角化の意思はあったものの、経営資源や組織能力の分配を含めた組織のシステムが主力事業に適合するように構築され、組織のメンバーの意識が新規事業へ向きにくかったこともあいまって、新規事業が育てられなかったのではないかと考えられる。また、多角化の方向性が分散的で、経営資源と組織能力のシナジーがイカ釣り機と生じにくいため、新規事業の競争優位構築にあまり貢献できなかったのかもしれない。
A 東和電機製作所の競争優位の源泉Only One
 東和電機製作所の競争戦略は、イカ釣り機のような特定化されたニッチ(隙間)市場に対して経営資源を集中して投入し、その市場を支配することでOnly One企業になるという、成功する中小企業の典型的な競争戦略の定石と言える。高い市場シェアを獲得する原動力になったのは、前述したように顧客のニーズに適合した製品を発売する研究開発力、顧客との継続的関係を作る充実したアフターサービス、そして競争力を持った製品が特許で保護されていたことがある。特許は他社の模倣を防ぎ、競争優位を維持する武器になる。ニッチ市場を支配することで、イカ釣り漁業者にとって、東和電機製作所は国内外で7割の市場シェアによって、差別化された競争ポジションであるonly one、絶対無二に近い企業の座を獲得したのである。only oneの競争ポジションは、その製品における相対的規模の経済性から低コスト優位を構築しやすく、ライバル企業がいないため価格も企業側のロジックで決まりやすい。only one故に顧客のニーズなどの情報は東和電機製作所に集まり、それが顧客ニーズに適合したよりよい製品の開発につながる。そうした製品の販売は顧客のいっそうの支持を獲得し、さらに競争優位を確固たるものにすという、好循環(positive feedback)が働く。この好循環は、ライバル企業の攻撃から身を守る強力な競争障壁になる。顧客情報の蓄積自体も、貴重な経営資源になる。
 しかしながら、only one企業にとっても弱点がある。only oneの座を獲得するのは大変なため、一度獲得したその座を失わないように、企業は経営資源をこの分野に集中し続けることが必要となる。その結果、多角化の原動力になる余剰な経営資源が、再び余剰経営資源を獲得した事業なり製品へ再投入され、企業の中核的競争力の維持には好ましいものの、リスクの集中というデメリットを負うことになる。企業としては経営資源の集中によってもたらされる競争力の維持に関する効用が、リスクの集中によるマイナスの効用を上回らないとならない。東和電機製作所の場合、売上高の変動のリスクはイカ釣り機における競争力維持のために集中している経営資源の効用を上回っているようである。こうした状況を防ぐには、経営資源のポートフォリオ管理による多角化事業の創出と、積極的なライフサイクル戦略による中核的製品の競争力維持が効果的である。前者は技術などを含めて戦略性を持って経営資源を新しい製品に投入し、新たなニッチ市場の創造や既存のニッチ市場におけるシェアを高めるような製品を開発することである。その結果、多品種少量生産になりがちで、全社的生産コストが上昇しやすい。そのため、輸出などでニッチ市場の規模を拡大して規模の経済性を作り出す、シナジーの追求でコスト上昇を相殺する、事業プロセスのリエンジニアリングでコストを下げる、などの方策を考える必要がある。その際には、経営資源を投入する製品が既存製品の競争優位を強化するような関係を作り上げることである。後者は自らが革新的な製品の発売などで陳腐化し、ニッチ市場を支配している製品のライフサイクルを決定していくことである。
 only one企業にとってもっとも大きなリスクは、経済状況、規制、技術革新、顧客ニーズの変化などで、支配しているニッチ市場が縮小したり、衰退していくことである。または、ニッチ市場が拡大するなどで、市場規模の小ささ故に参入を控えていた自社よりも豊富な経営資源と強い組織能力を持つ企業が参入し、市場シェアを奪われるリスクもある。中小企業の場合、支配しているニッチ市場が単数か少数の場合が多い。そうしたニッチ市場での売上比率が高いため、市場の変動が企業経営の不安定さに直結する。その解決策は多角化によるリスク分散か、競争優位の源泉になっている中核的製品の競争力維持の経営戦略で対応することになる。多角化戦略は、中小企業の持つ経営資源や組織能力の制約から、うまく経営資源の配分を行わないと、中核的製品の競争力も落ち、多角化した製品への中途半端な経営資源投入で競争優位性が構築できないと言う、二兎追うものは一兎も獲ず担ってしまう可能性が高い。現在、日本の総合電器メーカーですら「選択と集中」による事業の絞り込みをしており、中核的能力(core competence)を発揮できる事業分野に集中する戦略が望ましいとされている。

A 地域におけるonly one
 
市場や顧客に関してonly oneになるメリットは理解しやすいと思われるが、地域におけるonly one企業になることも重要である。東和電機製作所の所在する函館は北海道の中核都市の一つではあるが、全国レベルで活躍する企業は少ない。そのため、研究開発力があり、イカ釣り機の国内外の市場で高いシェアを持つ同社は、地域にとってもonly one企業なのである。函館近辺の企業や地方自治体が満たされないニーズを持ったときに、多少分野が異なっても、東和電機製作所の技術開発力があるならばなんとか解決してくれるだろう、という期待を持って同社へアプローチする。そこには新たなビジネスの種があるかもしれないし、新しい技術の開発につながるかもしれない。また、多くの企業や公的研究所と共同で研究開発や事業を行ったりしているのも、東和電機製作所と協働するメリットを他組織が感じているからである。同社にとっても、こうした協働を通じてリスク負担を少なくしながら技術力の強化や新規事業探索を行えるメリットがある。こうした情報という経営資源獲得に関して、函館におけるonly oneの地位は、同社へ技術力や顧客情報といった面で多大なメリットを与えてくれている。
 函館地域におけるonly one企業の地位は、資金や人材といった経営資源の獲得にも大きなメリットがある。技術開発に対する公的資金援助を東和電機製作所は多く獲得しているが、これも函館地域に同社を押しのけこうした資金援助を獲得できる企業がない、という地域のonly one企業になっているという側面は否定できない。中小企業は資金調達で苦労することが多いが、函館地域に優良企業が少ないことから、金融機関が同社へ積極的にアプローチし、北海道拓殖銀行の経営破綻意向も融資は比較的スムーズに行われるようである。東和電機製作所は従業員65名であるが、そのうち開発・設計部門の技術者は11名いる。中小企業が大手企業と互して技術者や理科系の新卒学生を採用するのは難しいが、函館地域で数少ない研究開発に優れた同社の人気は函館に留まりたい人の間で高く、人材採用もうまくいっているようである。東和電機製作所は地域におけるonly oneの地位に甘えず、函館の伝統産業であるイカ釣り漁業への貢献や地域の子供の育成など、地域社会との共生を忘れないことが、その地位をいっそう強化する好循環を生んでいるようである。
3.リーダーシップと組織
東和電機製作所の組織は、経営者の価値観、自主性重視と家族的暖かさを持った組織文化、柔軟な組織構造、などに特徴がある。経営者のリーダーシップのスタイルに関しては、初代の浜出慈仁社長と二代目の浜出雄一社長で異なるが、共に研究開発主導と現場重視の価値観は変わらない。浜出慈仁初代社長は創業経営者に多い、組織のカリスマ的象徴で、それゆえにトップダウン型リーダーシップを発揮していた。ただ、トップダウン型リーダーシップといっても、従業員に命令を下すだけではなく、自らも従業員と一緒に目標を達成していこうというタイプの経営者であったようである。浜出慈仁前社長が強力なリーダーシップを持っていたために、前社長の急逝で浜出雄一氏が突然社長へ就任することになり、社内でのリーダーシップの取り方でとまどいがあったようである。前社長の息子でいずれは後継社長という認識が社内でされていたとはいえ、前社長が当分陣頭指揮を取るいこうだったため、雄一氏へ後継者としての帝王学を指南したり、社内の根回しが十分でなかったようである。しかしながら、結果として浜出雄一氏への社長継承はうまくいった。その理由は、現場重視、研究開発主導、チャレンジ精神、社内融和といった前社長が持っていた経営理念や価値観を継承し、他方、リーダーシップのスタイルは、浜出雄一社長の特性を活かしたものであり、従業員の信頼を素早く獲得できたからと考えられる。浜出雄一社長は従業員と同じように一技術者として働いていたので、従業員とのオープンなコミュニケーションが取れており、従業員の創造性とやる気を高める自主性を活かしたリーダーシップへ転換し、それが従業員に受け入れられたからである。
 浜出雄一社長へ突然の社長交代があった時期は、一般的に企業設立から20年が経過して組織文化にそろそろ疲労が現れてくる頃である。特に東和電機製作所は、イカ釣り機市場でonly one企業としての地位を確立し、その独占的競争ポジションから危機意識の欠如、自信過剰、傲慢、保守的になり、顧客のニーズ、業界の技術トレンド、市場環境に対して素早く反応しなくなる危険性を潜在的に持っていたかもしれないライフ・ステージへ入っていた可能性がある。ところが社長の突然の交代によって生まれた新社長による新しいリーダーシップスタイルは、こうした潜在的な課題を抱えた東和電機製作所の組織文化を変革し、組織を活性化したと考えられる。東和電機製作所では、仕事中でも休憩中でもアイディアが出ればすぐに社長と従業員が議論をし、それを製品にフィードバックしようとする。こうした柔軟でスピーディーな仕事への取り組みは、企業が競争優位を維持するのに欠かせざるを得ない経営スタイルである。社長と従業員のオープンな議論は、組織全体で情報の共有を促進し、組織学習による組織能力の向上をもたらすシステムとしても機能したと考えられる。そして、社員はやりたい仕事を提案し、与えられた仕事が一段落すればやりたいことに取り組む自主性を、浜出雄一社長は尊重している。自主性は、経済が豊かになり仕事に対して経済的インセンティブ以上のものを求めるようになっていた時代と、技術者の知的探求を追求する本質に適合した手法であったといえる。もちろん、東和電機製作所の研究開発から生まれた新しい技術がすべて製品化されたわけではないし、また、製品化されても必ずしも成功しているわけではない。しかしながら、そうしたコストを支払う以上に、東和電機製作所がonly oneの地位を維持し続けるのに必要な技術革新をもたらし、新しい技術へ挑戦し続ける組織文化を形成していったのではないか。
 東和電機製作所は、社内に知識を創造し、蓄積するシステムを構築できていたが、やはり経営資源に制約がある中小企業では限界もある。そうした限界を突破するのは組織学習による社外からの新しい知識の導入である。1989年に、日本電波工業の下請けをすることで、東和電機製作所は大企業の管理システムを学び、本業への技術移転や品質管理につなげている。また、民間企業や公的研究機関との数々の共同開発プロジェクトは、新しい技術や知識を学習する格好の場になり、同社の研究開発にとって望ましい組織文化がもたらす高い組織学習能力とあいまって、新しい知識を創造する組織能力の向上が図られていった。

4.東和電機製作所の課題と将来
東和電機製作所はイカ釣り機市場におけるonly one企業として活躍しているが、専業メーカーとしてのリスクもある。日本の漁業自体が縮小傾向にあり、漁業の中でイカ釣り機を中心に営業しているため、市場の縮小とボラティリティに対するリスクヘッジが不十分と考えられる。もちろん、会社側は十分承知しており、漁業機械の製品多様化を図ってきたが、イカ釣り機に匹敵する事業の柱にはなっていない。浜出社長は漁業における省力化に関わるシステムの事業に加えて、漁業における安全に関わる事業を主要ドメインとする意向である。その手始めとして、GPS(全地球測位システム)を活用した世界初の海難救助支援システムの開発を行っているが、まだ事業化のめどは立っていない。海難救助支援システムは漁業関連製品なので販売におけるシナジーはあるものの、GPSという同社の既存製品とは異なる基礎技術を使用し、技術シナジーが薄い。限られた経営資源で異なる技術開発を行っていかなければならないため、core competenceの視点からはあまり望ましいと言えない。しかしながら、省力のための漁業機械技術に関してはある程度完成しているので、今後は漸次的な技術革新が中心になると見られる。そのため、技術開発のための経営資源を海難救助支援システム開発へ多く振り向けても、漁業機械におけるメカトロニクス技術の優位性は維持できるであろう。漁業機械で収益を稼いでいる間に海難救助支援システムを開発し、GPSを同社のもう一つの主力技術に育てる必要がある。
 GPSは自動車メーカーや電機メーカーが積極的に技術開発を行っているが、そうした企業に対して経営資源の乏しい東和電気製作所は海難救助支援システムというニッチ市場で、早期の競争優位を構築しようとしている。海難救助という海の現場を良く知り、漁業関係者に良く認知されている同社ならば、製品の開発さえうまくいけば、市場を抑えられることは可能と考えられる。漁業者の悲惨な海難事故が後を絶たず、ニーズは確実にある。あとはどれだけ早く、ある程度の性能を持って、リーズナブルな価格で製品を市場へ投入するかにかかっている。GPSは他の多くの分野にも応用が可能であるため、コンピュータ制御機械技術に続く、同社の新たなコア技術になるであろう。東和電気製作所がイカ釣り機という成長の期待できないニッチ市場を支配する老舗企業にとどまるか、それとも新たな成長期へステップアップできるかは、ここ数年の浜出社長と会社の頑張り具合にかかっていると言えよう。