File NO.103 サークル鉄工
1.会社の沿革
@ 起業から成長基盤の確立
 株式会社サークル鉄工の歴史は、1949年1月に農業機械を製造する工場で事務職員をしていた少覚納氏が個人事業で鎌や鍬を製造することから始まる。資金も技術もなかったものの、元来、起業意欲が高かったため安定した職場を離れ、4人の従業員と共に滝川市大町の小さな工場からのスタートであった。起業から2年後の1951年に、少覚氏は売上を増やすために暖房部を開設する。鎌や鍬といった鉄製品を加工する技術を応用し、風呂釜、ペチカ、釜戸を設計、製造、施工、販売するようになった。いずれの商品も独自のアイディアを取り入れ、人気を博した。また、少覚社長は親戚の北海道大学卒業の甥と共に木の苗を移植する機械の開発生産し、全国の営林署へ納入することで商売が拡大して売上高も2億円を超した。そこで、個人事業では限界が見えてきたため、1958年2月に株式会社サークル鉄工場を資本金155万円で設立した。社名のサークルには、池に投げ込まれた石がもたらしていく輪の無限の広がりを会社の無限の成長と重ね合わせ、そして、従業員の輪と和を大切にしたい、という少覚社長の理念が込められている。会社の規模が大きくなった今でもこの理念は組織文化として継承され、家族的な組織風土を維持している。1960年には建装課を開設して、暖房器具生産のノウハウを活かして、軽量シャッターやアルミサッシなどの建築金物と、建物の設計施工を手がけるようになった。顧客は農協などが中心であったようである。
 1960年代の前半、日本甜菜製糖がビートをペーパーポット方式で苗を早期育成する農法を開発した。このペーパーポット方式により、雪解けの遅い北海道においてビートの生産量を大幅に改善することになる。しかしながら、ペーパーポットに種を蒔き、そこで育成されたビートの苗を移植しなくてはならず、その手間が農家に余計な手間をかけることになった。ペーパーポット方式の欠点を克服すれば北海道のビート生産量を増加させられると考えた北海道庁の職員は、木の苗の移植機を生産している知り合いの少覚納社長へ相談した。そこで、1962年からサークル鉄工は自社で生産していた木の苗の移植機を改良し、ビートの移植機械を開発し始めた。そして、翌1963年3月、日本で初めてのビート苗人力供給式移植機による移植実験が成功を収めた。1964年から本格的に販売を開始し、ビートの高い生産量と農作業効率から移植機は大ヒットとなり、サークル鉄工場の名前は全道に広まることになった。日本甜菜製糖の新しい農法とサークル鉄工場のビート移植機は新しい市場を創造し、この市場で独占的な地位を築くことになった。
 1963年4月、以前から生産、販売していた暖房器具を発展させ、セントラルヒーティングをシステム化し、設備業界へ本格的に参入した。農機具のビジネスとこうした設備器具のビジネスは、技術や営業面でのシナジーが少ないが、冬場に生産が集中し、春先に需要が集中する農機具のビジネスと、夏場に生産が集中し、秋に需要が集中する暖房器具のビジネスは、工場稼働の平準化と資金の融通というメリットがあった。また、農機具市場は農産物の生産量による変動が激しく、農業とあまり関連性のない多角化事業を持つことによって、サークル鉄工の売上や利益の変動リスクを小さくするメリットも大きかった。これが株式会社化された以降のサークル鉄工が赤字決算になっていない大きな理由である。
 ビート移植機の大ヒットで大町の工場が手狭になり、1967年12月、滝川市泉町に造成された工業団地に工場を建設し、農業機械部の製造・技術部門を移転した。ライン化された生産性の高い新工場であった。この新工場の稼働により、ヒット商品のビート移植機の大量生産が可能になった。新工場の建設で会社の資産も増えたので、1968年、自己資本を充実させるために、資本金を1,000万円へ増資した。増資の引き受けは少覚社長、社長の親族、古くからの従業員などであった。1969年3月には札幌出張所を開設し、北海道最大の都市札幌で冷暖房や給排水の設備の設計施工を積極的に受注する体制を整えた。また、同じ年に、少覚納社長の息子で東洋工業の設計技術者であった三千宏氏がサークル鉄工場へ入社した。先進的な自動車業界でエンジニアとして働いていた少覚三千宏氏の入社は、同社の開発力と技術力を大幅に引き上げることになった。翌1970年に、本社機能と暖房部を農業機具部門のある泉町の工業団地へ移転、統合した。1972年にはビート移植機に使われている「苗分離機」で特許を取得し、独占している市場への他社の参入を防ぐ障壁を築いた。こうした特許による参入障壁を構築する一方で、地域の農業に適した特殊な製品と手厚いアフターサービスによって顧客との密接な関係を構築し、大手農機具メーカーを寄せ付けず、独占的競争地位を維持し続けた。1973年3月に社名をサークル鉄工場から、呼びやすいサークル鉄工へ変更した。会社の規模が拡大していく中で組織構造も変更し、1975年に農業機械部の組織変更や、施設課と建装課を合併して施設課になり、ビニールハウス、シャッター、一般建築の設計施工を行う事業を強化した。1977年には暖房部と施設課が合併し、農業機械部と共にサークル鉄工の二本柱になった。

A 絶対的な競争優位の確立
 
ビジネスが順調に拡大する中で、資金需要も増えていった。サークル鉄工は主に間接金融に頼っていたが、1974年12月には、自己資本充実のため、資本金を2,100万円へ、その後、1975年に3,200万円、1977年に4,700万円へ立て続けに増資した。増資の引き受けは、金融機関などではなく、会社の経営陣、従業員、少覚社長一族であった。従業員の中に株主を作ることは、従業員の和を尊重する会社であることを願う少覚社長の価値観に沿ったもので、仕事に対する動機付けと、会社に対する一体感を醸成するものである。こうした自己資本を基に、1979年に本格的な組み立て工場と大型製品倉庫を建設し、生産の拡大に備えた。そして、1980年に通産省の外郭団体である東京中小企業投資育成会社から出資の打診があり、サークル鉄工は初めて完全な外部者から出資を受け入れることになった。東京中小企業投資育成会社からの4,500万円程度の出資受け入れは自己資本充実の目的もあるが、それ以外に外部者を受け入れることで経営を近代化すること、情報の入手をしやすくすること、信用を増すことなどの目的を満たすものであった。この年には本社の新築社屋も落成している。そして、1981年には東京中小企業投資育成会社が再度、2,165万円出資をし、資本金は1億4,250万円にまで増加した。
 1981年2月の株主総会にて、少覚納社長が会長へ退き、少覚三千宏専務取締役が代表取締役社長へ昇格する人事を決定した。少覚三千宏社長は、入社以来同社の研究開発部門のリーダーとして活躍する一方、父親の少覚会長から帝王学を学び経営者としての能力を磨いてきた。社長職を息子に譲った後の少覚会長は会社経営には口を挟まず、地元滝川市の経済界の公職を勤めたり、趣味の書道を楽しむ生活であった。帝王学を学んだものの経営者としての経験が浅く、むしろ最高技術執行責任者(Chief Technology Office)としての能力に秀でた少覚社長を補佐したのは、会社のバックオフィスを支えてきた深澤励専務であった。少覚社長がサークル鉄工の新しいリーダーになり変化したことは、技術力を持続的競争優位の源泉にする研究開発重視の経営戦略を鮮明にしたことである。1982年には中小企業として早期にコンピュータと溶接ロボット2台導入予定を導入し、生産性の改善へつなげようとしていた。溶接ロボット導入で浮いた人材は製品開発部門へ移動させ、研究開発力を高めた。また、1986年には当時珍しかったCAD(Computer Aided Design)を導入し、一方で既存の設計器具を廃止する荒治療を行い、設計面での効率化を図った。研究、開発、設計を強化する一方で、製造技術がそれらに追いつかなければ顧客に受け入れられる品質を維持できない。そこで、1985年、当時もてはやされていたQCサークル活動を開始し、製造部門における改善を行っていた。QCサークル活動はサークル鉄工に根付き、現在も継続されて行われており、同社の経営全体の品質改善に貢献している。
 研究開発型企業にとって大きな悩みは、技術の優位を維持し続けることである。特にビート移植機の市場ではサークル鉄工が市場を独占し、価格が高止まりしていた。また、農業機械業界が需要の後退から、同社の技術を模倣し、低価格を売り物にした農業機械メーカーの新規参入を招いてしまった。1982年にサークル鉄工が特許や実用新案を得ていた苗分離に関する技術を盗用し、製品を販売していた札幌歯車製作所と同社の子会社である札幌農機製作所に対して特許侵害などを理由に、販売差し止めの訴訟を行った。あまり大きくない北海道の農機具市場で、こうした問題を裁判で争うことは珍しかったようであるが、サークル鉄工にとって技術が競争優位の源泉であるため、断固たる措置でそれを守ろうとしたのであろう。反対に札幌農機製作所から特許庁に対してサークル鉄工の分離器に関して特許無効の申請がなされたが、札幌高等裁判所の判決でサークル鉄工の勝訴に終わった。サークル鉄工は既存製品の技術を特許で守る一方、新製品開発を積極的に行っていった。1983年12月に「たくぎんどさんこ技術開発プラン」に認定されたことで、北海道拓殖銀行からビート移植用省力機械開発ために長期プライムレートを下回る優遇金利で資金を借りることに成功した。その成果は1984年春に新製品となってもたらされた。ビートの不良株を除去し、畑の空いた部分をセンサーで感知し、植え付け間隔を自動的に狭める移植機の販売を開始した。新型移植機は従来型の6倍の生産性を持ち、ビート移植に携わる人手を20人から3人へ減らすことが可能になった。この新型機は社長が開発チームを直接指導して開発したもので、大幅な高性能化が人気を呼び、3年間で2000台を売るヒット商品になった。1987年8月、社団法人北海道中小企業振興基金協会から高性能ビート移植機の試作のために492万6,000円の助成を得て、いっそうの高性能機の開発を進めた。
 農業は地域ごとに手法が異なるものの、農業機械は多少の改良をすれば国際商品としてグローバル市場へ販売は可能である。ビートは世界16カ国で栽培されており、生産量は年間3億トン弱である。サークル鉄工は総合商社、ビートの新しい栽培方法を開発した日本甜菜製糖と共同で、1974年から海外市場の開拓を行った。日本甜菜製糖が甜菜の栽培指導を行い、サークル鉄工がビート移植機の使用方法を教え、総合商社が実際の輸出を担当する形である。しかしながら、海外では甜菜の新しい栽培方法が浸透せず、売上はサンプル輸出程度であったため、なかなか伸びなかった。それでも海外進出を始めてから10年後の1984年度は北米、南米、北欧、中国、イランなど13カ国へ輸出し、輸出売上高は1億円に達していた。1987年にはソ連へ輸出しようとしたが、サークル鉄工の精密な機械がソ連のような国の農業には合わなかったのか、農産物の増産に結びつかず、結局うまくかなかった。欧州へはベルギーのアグリプラント社を代理店にして、既に西独、英国、フランス、オランダへ数千万円規模で輸出をしていたが、1990年10月、スペイン市場への進出を決定した。スペインの苗移植機の市場規模は日本の数倍と見られ、翌年春から移植機のサンプル出荷と技術者を派遣することにした。1992年からアグリプラント社を通じて本格的にスペインへも輸出し始めた。サークル鉄工がこうした国際戦略を進める背景には、日本の農業機械市場が縮小傾向にあるからだ。ビート移植機の需要は限られており、より高付加価値の新製品を発売しても買い換え需要が中心で、企業が大きな成長を遂げるためには多角化か、市場を海外に広げて行くしかないのである。幸いサークル鉄工は、世界市場でもトップクラスの性能のビート移植機を開発し、生産する能力を持っており、まず、世界で勝負を賭けたのである。
 一方、ビート移植機以外の農業機械への製品多角化も積極的に進めており、1991年2月、光センサーやマイコンを搭載したタマネギ用苗移植機OTP-4を350万円で発売した。移植作業にこれまで20人を必要としていたが4〜5人で行え、大幅に省力化できる。これまで農作業の自動化が遅れ、高齢化や人手不足に悩むタマネギ農家は季節労働者を雇って対応していただけに、道内だけで6,000台の需要を見込んだ。しかしながら、タマネギ用移植機械の市場は既に先発メーカーによって支配されており、ビート移植機ではNo.1の同社も後発メーカーであり、市場を簡単には開拓できなかった。1993年1月、新しい散布機構とマイクロコンピュータ制御で肥料消費を1割以上減らす精密施肥機CFC-4を、本体価格90万円で本格的に販売開始した。本体価格90万円。1991年にサンプル出荷し、優良農業機械施設等開発改良表彰を北海道知事から受ける程、優れた製品であったようだ。しかしながら、農業従事者が高度なマイコン制御を使いこなせず、ヒットはしなかった。1993年10月、サークル鉄工は来年夏からタマネギとジャガイモ収穫機市場へ参入することを決定した。これらの収穫機は、秋冬に生産して春に需要が集中するビート移植機とは異なり、需要が夏から秋に集中する。需要の集中時期の異なる製品を生産することで、工場の生産効率を高める戦略であった。タマネギとジャガイモの収穫機は、1992年に解散した札幌の収穫機メーカーの元社員を採用し、短期間で開発したもので、他社の製品と比較して1日あたりの収穫面積を従来機の倍にした。高性能による差別化で挑んだが、年間販売台数は30〜40台程度で、ビート移植機に並ぶ主力製品にはまだなりえていない。開発期間が短かったことと、規模の経済性が見込みにくいことから部品は外注しており、利益率はビート移植機と比較して低いようである。農業機械における製品多角化戦略は、なかなか成果があがらなかったが、建築・設備工事関連の事業は順調であった。建築・設備工事事業の売上の比率は5割を超え、本業であった農業機械事業よりも売上が多い。需要の季節的集中がある農業機械の事業を補完するメリットも大きく、建築・設備工事事業は売上以上の貢献をサークル鉄工にしている。さらに、1998年11月、ログハウスの施工事業に新規参入を図った。施工時期を冬などに限定し、坪50万円と従来のログハウスの3割安で売り出したが、ログハウス自体の市場が小さいのか、売上はまだあまりない状況である。
 一方、ビート移植機に関しての競争優位性を維持するために、1991年7月、最新のビート移植機STPシリーズを発売する。この新製品はマイコン制御で1人の苗供給者が2畦の植え付けができ、かっては30人でやっていた苗移植作業が4〜5人で可能になる。この製品も大幅な生産性の改善をもたらすもので、買い換え需要を喚起してヒットした。1995年6月には全自動でビートを植え付ける移植機「ロボットCAP-2」を開発し、320万円で発売した。人手では従来機の4〜5人から1人となり、究極の省力ビート移植機である。発売初年度は50台であったが、その後は100台以上の販売を記録する大ヒットとなった。その結果、ビート移植機市場では80%のシェアを獲得した。ビート移植機の部品は内製であり、利益率も高い。また、販売方法は、サークル鉄工が直接農家へ営業やアフターサービスをするものの、農業機械はホクレンを通して農家に販売するという、販売代金回収リスクが少ない方法を取っていた。こうすることで、資金回収のサイトは長いものの、資金回収の手間が省ける。ホクレンのような強力なネットワークを利用することで、サークル鉄工は開発、生産、マーケティングに集中するという戦略を採用できるのである。サークル鉄工は高い製品開発力を持ち、それを事業化する生産システムとビジネス・モデルを長期間にわたって築き上げた。同社の安定した業績は、それらの賜物といって良いであろう。

2.経営戦略と組織の経営資源
@ 研究開発と製品戦略
 
特定作物の、特定業務へ特化した農業機械は、機械自体の汎用性が低くなり市場規模が限定される。その結果、市場が細分化し、規模の経済性を活かすことは難しい。そのため、農業機械メーカーは、細分化された市場において高い市場シェアを獲得することが、経営戦略の第一の目標になる。全国のビートの作付け面積は7万ヘクタール(1984年)で、ビート移植機は8,000台稼働しているが、サークル鉄工はビート移植機市場を独占している。サークル鉄工はビート移植機市場で競争優位を持続するため、研究開発へ力を入れている。研究開発には売上高の1割程度を支出し、従業員の2割以上の人員を開発部門へ割くことによって、生産効率を高める新製品の開発と生産工程の効率化に努めている。当初はトラクターにアタッチメントを取り付ける機械式の移植機であったものが、コンピュータや光センサーを利用したハイテク型のビート移植機へ発展していった。その結果、ビートを移植するのに必要な人手も20人から最小の1人までに減り、生産性は飛躍的に改善した。製品の進化に伴って、様々な新技術を導入したが、サークル鉄工は新技術を特許や実用新案によって防御する戦略を採用した。1972年に苗分離機で特許を取得し、1974年に苗分離装置で実用新案を取得。その後、米国、英国、ベルギー、仏、西独、フィンランド、ソ連で苗分離機で特許を取得していった。1982年にはサークル鉄工のビート移植機と類似した製品を販売していた札幌農機製作所に対して、特許侵害で販売差し止めの訴えを起こしている。サークル鉄工のコア・コンピタンスが生産性の改善につながる製品を開発する技術開発力にあることを認識し、競争優位の源泉を守るために、特許取得と特許侵害の訴えは必要不可欠な戦略であったと言えよう。サークル鉄工の技術力は新製品開発だけでなく、生産設備の技術高度化に熱心に取り組んできた。早い時期からNC旋盤、旋盤用ロボット、CAD(コンピュータ支援による設計)/CAM(コンピュータ支援による製造)を導入し、開発生産部門の低コスト優位を構築している。生産機械をも内製化することで、生産に関する技術力を向上させてきた。新しい機械を導入するたびに工場の生産体制を再検討し、品質管理や生産性を改善していった。
 創業者である少覚納現会長は持ち込まれた困難な製品構想を独自の発想と粘り強い探求心によって製品化する姿勢を持った経営者であることが、こうした研究開発重視の組織文化を創り上げた源泉であると思われる。創業者の姿勢に加えて、2代目社長の少覚三千宏氏が技術者であることも、サークル鉄工が研究開発重視の経営戦略を採る原動力になっている。少覚社長は東北大学工学部を卒業後、東洋自動車工業(現マツダ)で自動車の設計を行っていたが、サークル鉄工の事業拡大に伴って、1969年に父である少覚納現会長に後継者として呼び戻された。当時の製造業で最先端の自動車産業で技術者として働いていた少覚社長が入社したことによって、新しい開発手法や製品製造技術が導入され、サークル鉄工の技術力が飛躍的に進歩したと考えられる。自動車の設計と同様に、製品の基本部品を共通化し、部品の組み合わせによって多品種少量生産を実現することで、製品製造コストを下げるような製品設計を導入し、製品の差別化優位と共に製品の低コスト優位の源泉になっていると考えられる。少覚社長が入社してから12年間は、取締役として父親の下で帝王学を学びながら、サークル鉄工の研究開発部門の中心人物として手腕を発揮していた。社長一人の技術開発力が優れていても、従業員が社長の指示を理解し、行動できる技術レベルになければ、会社全体の技術力は競争優位に転換されにくい。そのため、少覚社長は開発部門の従業員と共に働きながら、従業員に技術教育を行うことで、少覚社長の技術知識をサークル鉄工全体の組織知として共有することを試みた。少覚社長は技術者出身らしく、研究開発は単に利益だけでなくロマンをも求める姿勢を持ち、それが技術者を中心とした従業員を動機づけ、研究開発志向の組織文化を育てていったと思われる。その結果、サークル鉄工は技術の強い企業として、農業機械業界で確固たる地位を築き上げてきた。同社の高い技術力が評価され、東京中小企業投資育成会社が投資を行い、「たくぎんどさんこ技術開発奨励賞」や札幌銀行中小企業技術研究助成基金から奨励金を受け、北海道から技術開発賞受けてきた。
 ビート移植機に関しては、サークル鉄工の製品開発力が十分活かされて優れた製品を発売し、市場支配力を基盤にして高い売上をあげてきた。ビート移植機市場における高い市場シェアをバックに、農業機械の製品ライン多角化を進めた。新しい散布機構とマイクロコンピュータ制御の施肥機や、タマネギとジャガイモ収穫機を発売したものの、予想以下の販売にとどまった。あるニッチ市場で高いシェアを獲得していても、他のニッチ市場で同様に競争優位を構築し、高いシェアを獲得できることにはならないことを示している。施肥機の場合、ビート移植機で確立した技術を活用したものの、肥料を蒔くことに関してはそこまでの精密さは必要とされず、操作の複雑さと価格の高さといったデメリットが顧客に受け入れられなかったのである。顧客ニーズよりも技術のシーズを基に製品を開発したため、顧客の問題解決とそれに対する費用のバランスが悪いという、技術志向の企業にありがちな例であろう。一方、タマネギとジャガイモの収穫機に関しては、先発企業に対してビート移植機と同様のハイテクによる省力化を差別化として参入した。しかしながら、既に高い市場シェアを獲得している企業の市場支配力が強く、差別化の武器だけでは十分でなかったのであろう。

A 多角化
 
ビート農家が増加し、ビート移植機の需要が成長していけば良いが、日本の農業自体が縮小傾向で、買い換え需要が中心である。また、年毎の豊作や不作といったビート農家の所得の不安定さは、機械の買い換え需要の時期を長引かせたり、低価格の中古機械へ需要を向かわせる事になった。そのため、細分化された市場をほぼ独占していても売上が保証されるわけではなく、市場自体の縮小による売上減少というリスクを抱えている。また、特定用途向け農業機械は需要の時期が1年通じてではなく、限られてしまう。サークル鉄工の手がけるビート移植機もその例外ではなく、需要はビートを移植する春先に集中する。そのため、ビート移植機の生産は秋から冬にかけて行われ、夏場の工場は閑散期となり、工場稼働率の低下から収益性は悪化する。単一のニッチ市場へ依存するリスクの分散のため、北海道以外の市場開拓、製品ラインの多様化、農業機械事業以外への多角化が経営戦略の第二の目標になる。
 サークル鉄工の売上高のうち、農業機械事業の売上の比率は45%、建築・設備工事事業の売上比率は55%となっている。両事業の産み出す利益の絶対額は農業機械事業の方が大きいものの、農業機械メーカーとは単純に言えないほど建築・設備工事事業の売上比率が高い。サークル鉄工が起業時に持っていた中核技術は鉄の加工であり、企業として生き延びるため、その技術を基盤にして農機具や風呂釜といった自社で生産できるものに手を出していった結果、事業の多角化が進んだと考えられる。また、農業機械事業の顧客も建築・設備工事事業の主要顧客も農業者や農業関連であり、両事業は販売チャネルを共有できることでシナジーがあるといえる。両事業が軌道に乗ると、サークル鉄工の経営資源を効率の良く活用させる効果も生じ、いっそう両事業へのコミットを高めることになったようである。ビート移植機生産と販売は秋から春にかけて繁忙期であり、降雪の多い冬場において建築・設備工事は停滞する。反対に農業機械事業が閑散期である春から夏にかけては、建設・設備工事の仕事が多くなる。こうした異なる生産や需要のピークを持つ2つの事業は、サークル鉄工の工場や従業員の付加価値活動へ従事する稼働率を高め、資金繰りも楽になるメリットもある。こうして、農業機械事業と建設・設備工事事業は同社の両輪となって発展していった。中小企業の場合、経営資源を十分利用できずに新規事業で競争優位を構築できなかったり、反対に新規事業へ力を入れるあまりに本業への経営資源の供給が不十分になって、本業での競争優位を失わせることがある。サークル鉄工が事業の多角化に成功したのは、両事業間のシナジーが十分あったこと、異なる繁忙期と閑散期ゆえに両事業間の経営資源の使い回しが可能であったこと、創業初期から2つの事業展開をしていたため経営システムが2事業を前提に構築されていたことが考えられる。

B 営業地域拡大戦略
 
サークル鉄工の農業機械事業は、北海道のビート栽培農業者を主な顧客としているが、市場規模が限られているため、1974年から商社を経由して輸出を開始した。その後、サークル鉄工は自ら海外市場の開拓へ打って出ることになった。農業機械は製品のライフサイクルが10年程度なので、長期間の営業で輸出していくことになる。サークル鉄工のビート等の苗移植機は、ペーパーポット方式で苗を育成する特殊な農業方法ゆえに、輸出を初めてする国へは製品だけでなく、サークル鉄工の技術者はもちろん、ペーパーポット方式の苗育成方法を開発した日本甜菜製糖の技術者と共同で、現地で苗の育て方から移植機を使った苗の植え付けを指導する、コンサルティング営業を行うことが基本になっている。コストはかかるものの、コンサルティング営業はサークル鉄工の機械を十分活用してもらうために必要な手順であり、同社の農業機械の値段が比較的高いことと、長期間にわたって1製品を売り続けることで、コンサルティング営業の高コストをカバーしているとみられる。
 1984年には輸出売上高1億円、全売上高に占める割合は4%で、米国、カナダ、中国、イラン、フィンランド、デンマーク、南アメリカなど13カ国への輸出実績があった。欧州へはベルギーのアグリプラント社を代理店にして、西独、英国、フランス、オランダへ数千万円を輸出していた。その後、旧ソ連への輸出が試みられたが、ソ連の農業方法に対して手間暇を必要とするペーパーポット方式を使うサークル鉄工の精密な機械が合わず、目論見通りにはいかなかった。1992年から、現地の専門会社へ輸出する形式で、スペイン市場へ進出した。しかしながら、1995年に、1ドルが80円台の超円高になり、米国輸出は採算的に厳しいため、売上ベースで1%未満にすることになった。その分、ヨーロッパへの輸出でカバーしたものの、2000年度の輸出売上高は1億円程度と見られ、10年前と変わらない状態である。世界各国の農業は同じ作物でも地域の味の嗜好に合わせてその地域独自の方法で行われていることも多く、そのため、農業機械へのニーズも異なる。農業機械市場が全世界で非同質的であり、グローバル市場ではなく、マルチナショナル市場といえる。マルチナショナル市場において、世界各国の市場に合わせて製品を改良できる余裕の乏しい中小企業にとって、輸出売上高を伸ばすはなかなか困難な戦略と言えるかも知れない。

C 財務戦略
 
中小企業にとっては資金繰りを含めた財務の問題は大きいが、サークル鉄工の業績が安定していたことと、北海道拓殖銀行が地元企業を育成する戦略を採っていたため、サークル鉄工の資金調達は比較的恵まれていたようだ。企業の成長に伴う増資は、経営陣などの身内でまかなったが、借入金は北海道拓殖銀行から主に行っていた。特に大きな追い風になったのは、将来性の高い中小企業へ出資して育成を図る公的ベンチャーキャピタルの東京中小企業投資育成会社から出資を受けたことである。1980年に東京中小企業投資育成会社から4,500万円程度の出資を受け入れ、そして、1981年には東京中小企業投資育成会社が再度、2,165万円の出資をし、資本金は1億4,250万円にまで増加した。外部からの出資を受け入れるここは大規模な投資に備えた自己資本充実の目的もあるが、それ以外に外部者を受け入れることで経営を近代化すること、情報の入手をしやすくすること、信用を増すことなどの目的を満たすものであった。東京中小企業投資育成会社から出資を受けたことで、サークル鉄工の収益性や将来性は公に知られることとなり、その後の事業拡大に使用される資金の調達をより容易にした。また、これを機に経営システムの近代化が図られ、結果として企業の成長に備える体制が整えられることになった。

3.組織
サークル鉄工においても現会長である少覚納初代社長は、裸一貫で独立し、サークル鉄工を育て上げたカリスマ的リーダーシップを持った優れたリーダーであったようだ。こうした創業社長のいる中小企業では、2代目社長は苦労することが多いと言われる。サークル鉄工の場合、後継者の少覚三千宏社長が東洋自動車工業に勤務していた生粋の技術者であり、創業社長と経営者として差別化を図れたことが、事業継承成功の第一の要因と考えられる。両者は能力の棲み分けを行えていたので、少覚会長は少覚社長の技術者としての能力を認め、その能力を最大限に発揮させる環境を作り上げ、それとともに時間をかけて経営全般の知識を伝授していった。一方、少覚社長も父親である会長へ無用なライバル心を持たず職務に専念し、サークル鉄工入社早々から会社へ貢献する活躍を見せた。その結果、他の従業員が血族による後継という意味以上に、少覚社長を優れた技術分野のリーダーとして認めることになった。これが事業継承に関する第二の成功要因と考える。従業員にとって、リーダーとして能力的に信頼できる人間でないと、たとえ息子であっても納得しがたいであろう。少覚社長は技術者として、まず、会社へ貢献し、後継者としての正当性を強化したと言えよう。事業継承の成功要因の第三は、少覚先代社長が会長職へ退いて少覚現社長が就任した後は、少覚会長は地元経済界での活動や趣味の世界へ力を入れ、サークル鉄工の事業に対しては多くの部分を後継者である少覚社長へ任せたことであろう。そのため、少覚社長は十分に能力を発揮できたと考えられる。中小企業の生き残る一つの道はニッチ市場向けへ高付加価値の製品を販売し、高いシェアを獲得することである。高付加価値化のためには研究開発重視の企業へ変革していかなくてはならない。そのため、技術者出身の少覚社長が強力なリーダーシップを取り、組織変革や組織能力の向上を図っていく必要がある。少覚社長が経営者として自由裁量を与えられてこそ、そうした変革が可能なのである。
 中小企業は一般的に言って、大企業と比較して労働条件が良くない。そのため、中小企業が大企業と同じ人事管理をしていたら、優秀な人材は労働条件の良い企業へ転職してしまう。そこで、必要なのは経営者と従業員が価値観を共有して同じビジョン実現のために協働することと、大企業と異なる人事管理で動機づけることであると考えられる。少覚社長は技術開発に力を入れ、技術に強い思い入れを持ち、人は財産だ、という視点で社長自らが現場で技術職の従業員を教育している。そうしたプロセスにおいて、少覚社長の価値観やビジョンが従業員に浸透し、それが組織統合の手段になっているようだ。技術者は比較的自由に研究を行うことができる体制にあり、それもやる気を高める一因になっている。そして、高い技術力を背景に北海道でも有数の会社の認知度を持つため、従業員は会社へ誇りを持つ。また、サークル鉄工は1995年に事業部制を採用し、事業部ごとの成果配分制度を導入した。この制度によって、農機部と建設部は互いに競争意識が芽生え、努力が成果に結びつけば経済的報酬が高まる。実力主義の給与体系を取り入れることで、仕事のできる人間を優遇し、会社への貢献を引き出していく。こうした動機づけが優秀な人材を惹きつけることになっている。
 サークル鉄工の「サークル」は会社が無限の成長の輪を広げ、従業員の輪と和を大切にするという少覚納会長の理念が示され、組織文化として定着していた。少覚会長から社長職を引き継いだ少覚三千宏社長は、「サークル」の理念を継承しながらも、「アイディアに生きる!」という研究開発重視の中小企業としての経営理念を新たに打ち出している。また、CircleのCをCreation、Concentration、Challengeの3語を連結した具体的な経営戦略の概念を提示していると考えられる。Creationは経営理念を具体化したもので、研究開発による新しい価値の創造を同社の戦略の中心に据えているとみられる。創造を生み出す創造力が、サークル鉄工のコア・コンピタンスと言えよう。Concentrationは事業領域と経営資源の分配を特定分野へ集中していく戦略的意図が読みとれる。そして、Challengeは創業当時の起業家精神の組織文化を保ち続けようとする意思といえよう。サークル鉄工はこの3Cを強力に押し進めるリーダーと、それを実現できる経営資源と組織能力を持っている。そのため、21世紀もサークル鉄工の競争優位性は持続されうると考える。