File NO.102 東洋農機株式会社
1.企業の沿革
@ 創業から合併へ〜東洋農機株式会社の誕生〜
 1909年2月、山田清次郎氏が畜力用農機具を作るために、山田農機製作所を兄弟の嘉蔵氏、源二氏と共に帯広で創業した。帯広は農業や畜産業が盛んな十勝平野の中心地で、農機具の市場に近く、農機具製作を商売にしているものも多かった。兄弟で力を合わせて商売をしていたが、その後、帯広の隣にある芽室の太田家に源二氏が養子に出され、源二氏は1915年に芽室で太田農機具製作所を創立する。ところが、創業者の清次郎氏は新得町へ引っ越すことになり、商才に長けた嘉蔵氏が帯広での商売を引き継ぐために山田農機具製作所を1917年に設立した。山田嘉蔵氏は長兄の商売をうまく拡大し、戦中、戦後の食糧難を克服するための食糧増産で農機具の売れ行きが良かったこともあり、1947年に自営業から始まった山田農機具製作所は山田トンボ農機製作所と名称を変更、1958年に株式会社化するまでに成長した。帯広だけではなく、1963年には網走郡美幌町に、1965年には標津郡中標津町に営業拠点を構え、販売地域の拡大を図っていった。一方、芽室で太田農機具製作所を創立した太田源二氏も順調に商売を拡大、1956年3月に太田農機具製作所を有限会社化し、1964年に夕張郡由仁町と河西郡中札内村にサービス工場を開設した。
 もともと兄弟であった山田嘉蔵氏と太田源二氏がそれぞれ創立した山田トンボ農機製作所と太田農機具製作所が成長していくにつれ、いっそう競争力を向上させるため関係の深い両社の間で合併の話が持ち上がっていた。しかしながら、山田トンボ農機製作所の規模が大きく、太田農機具製作所が吸収合併にされる懸念を持った。そこで、1965年に新井農機具製作所と合併し、芽室農機工業株式会社となり、経営規模を拡大した。芽室農機工業が設立された年に、あるジャガイモ収穫機が発売された。これは省力化に大きな効果のある人気輸入農機具を、太田農機具製作所が国産化し、合併後の会社から発売したのである。この商品は2年後に大ヒットし、現在の東洋農機の基盤を築くことになる。
 ところで、農機具の市場は需要家である農家戸数と農家の経済状態に大きく影響されるが、1965年に大冷害によって北海道の農業は凶作に見舞われ、農機具業界は大不況に見舞われる。当時70社近くあった農機具メーカーは、倒産や合併によって10年間で45社へ減少する業界再編が起こった。1966年にホクレンの系列会社で、道内トップの農機具メーカー北海道農機と、やはり十勝で有力メーカである道東農機が倒産する事態となり、業界に再編による生き残りの危機感が生じた。倒産によって北海道農機の主力であった帯広工場を閉鎖しなくてはならなくなったが、債務返済のために帯広工場を売却することになり、北海道農機の破産管財人は売却先を探すことになった。山田トンボ農機と芽室農機工業共にこの工場の買収を検討したが、単独での買収は難しかった。そこで、1967年4月に山田トンボ農機と芽室農機工業の経営陣が個人的に出資をして、資本金1,000万円で新会社、東洋農機株式会社を設立し、北海道農機の帯広工場を買収する際の受け皿会社にした。北海道農機の販売していた農薬散布機は、ジャガイモ収穫機と並ぶ東洋農機の主力商品になって、貢献した。初代社長には山田嘉蔵氏が就任し、将来的には山田トンボ農機と芽室農機工業を東洋農機が吸収し、合併することを前提としていた。その際に、通産省の押し進める中小企業育成のための中小企業近代化促進法を利用し、高度化事業計画の補助金を得る算段になっていた。しかしながら、芽室農機工業の規模が大きくなったとはいえ、合併後に山田トンボ農機が完全に主導権を握る懸念は残っていた。そこで、芽室町の隣にある清水町で1913年に山畑久治氏が創業し、1953年に有限会社化した山畑農機具も1968年に東洋農機へ出資し、将来の東洋農機、山田トンボ農機、芽室農機工業の合併による統合へ加わることになった。山畑農機具が加わることで、山田トンボ農機と芽室農機工業の緩衝材になることを期待されたのである。合併に備えて、この年に山田トンボ農機、芽室農機工業、山畑農機具の営業部門を東洋農機に集約した。1969年2月に中小企業近代化促進法に基づく特定合併により、東洋農機が存続会社となって、山田トンボ農機、芽室農機工業、山畑農機具を合併した。資本金は4社の合計である5,500万円になった。同年11月には、本社住所を北海道農機帯広工場から、高度化事業計画によって得た資金で作られた施設のある現住所に移した。

A 合併とその後の苦境
 合併して新生東洋農機がスタートしたが、経営の統合は出身会社間のライバル意識と余剰経営資源の発生によって、その新しい旅立ちは厳しいものであったようである。1970年11月には山田トンボ農機、芽室農機工業、山畑農機具の旧工場を閉鎖し、本社の隣に建設された新工場へ集約するが、工場のレイアウト設計の問題から生産性向上につながらず、工場建設費の減価償却が生産コストに重くのしかかることになった。合併後の経営統合の過程における混乱と、市場の低迷もあって東洋農機の経営は悪化し、従業員の中から辞めるものも出てきた。合併前はそれぞれが小さいながら優良企業であったが、ライバル企業からは「合併は失敗だった」、「資金繰りの悪化から倒産する」という中傷を言われるようになっていた。そこで、1971年に日本生産性本部から経営コンサルタントを派遣してもらい、経営の改善を図って苦境を脱出しようと試みた。経営コンサルタントによる指導はその後3年間続いた。
 経営が悪化する東洋農機にとって神風となったのは、1973年の第一次石油ショックだった。石油ショックで農産物価格も上昇し、農家の収入が大幅に増加した。その結果、農機具の売上も増加したのである。市場の低迷から値引きが横行していた農機具の価格は高止まりする一方、石油ショック後の不況で部品などの原材料費が低下し、同社の収益性は改善することになった。また、経営コンサルタントの助言もあって、1975年に工場を手直ししてラインの考えを持ち込み、生産性も向上した。当時の東洋農機の主力商品は芽室農機工業が発売していたTPH2型というジャガイモ収穫機であり、食用ジャガイモ収穫機の市場で4割以上のシェアを獲得していた。その当時の大規模農業を志向する農家のニーズに合わせて、TPH2型を改良して大型化した製品を1972年から販売していた。しかしながら、耐久性のあがった他社製品と比較して故障が多く、補修部品の欠品があったため、顧客の離反を招き、市場シェアは35%にまで低下してしまった。そして、欠点を改良した後継機種のTPH5型(通称「白鳥」)が1975年に発売されたのを受けて、1976年にTPH2型の販売を停止した。TPH5型も大ヒットし、同社の市場シェアは5割まで上昇した。
 東洋農機の初代社長であった山田嘉蔵社長が富山県出身であった縁から、東洋農機のメインバンクは北陸銀行であったが北陸銀行の経営基盤が弱かったため、その他に北海道拓殖銀行と帯広信用金庫などとのつきあいがあった。しかしながら、合併後の経営危機で自己資本の重要性を再認識し、工場の増設などによる投資も増えたことから、1976年4月に通産省の外郭団体である東京投資育成株式会社から出資を受け入れ、1億3,000万円へ増資された。これは同社が第一次石油ショック時に収益性をあげた恩恵である。1978年11月に、出資者の持ち分に割り当てる形で再増資を行い、資本金は1億8,000万円に増加した。1979年6月に、メインテナンスサービスと特注品の生産を行う芽室工場を稼働させ、TPH5型の後継機種TPH7型の発売へ備えた。この年が農機具市場のピークとなった。

B 確固たる競争優位の構築
 1979年にTPH5型をさらに大型・高性能化したTPH7型機を発売し、食用向けのジャガイモ収穫機の市場で2/3のシェアを獲得する大ヒット商品となり、同社の主力商品として利益を稼いだ。ところが1980年に冷害による凶作、1981年は台風による作物被害、1983年に冷害による凶作と続いた。収入の減少は農家が農機具への投資を難しくするし、農家の収入に占めるこれまでに購入した農機具の債務の比率を高め新たな農機具の消費意欲を失わせる。不作という一時的理由に加えて、こうした農産物の不作が続くと、収入の減少が堪えて離農する農家も出てきてくるし、若者の農業就業離れが招いた後継者難から農業を廃業する農家もあって、顧客である農家戸数は減少してきている。農機具市場は一時的不況と構造不況によって、縮小傾向に入っていった。そのため、東洋農機の業績は一気に悪化し、1985年度(1986年1月期決算)にはついに赤字へ転落する。
 東洋農機は経営悪化に対してコスト削減を徹底する。まず、人件費の削減を新規採用の停止と賞与の削減を行った。好景気に沸く当時に賞与の削減を行ったため、人材の流出を招き、185人の従業員は145人へ減少した。その結果、人件費が圧縮され損益分岐点が下がった。人件費の削減に加えて、経営の効率を上げることで生産コストを削減するために、1985年、ポルフ(Practical Program of Revolutions in Factories)を導入することにした。ポルフは経営コンサルタントの小林巌夫社長が開発した、工場の製造体質を抜本的に革新するための手法である。競争力を高めるための20項目の実行指針を数値化し、それを職制によって分けられた小集団の目標にして、その達成度を競っていくものである。当時の太田秋夫副社長がポルフを導入して実際に成功している企業経営者と懇意であり、工場のエンジニアの進言もあってポルフ導入を決定した。ポルフの導入に当たっては、実際に働く従業員のポルフに関する共通の理解が必要で、会社全体でポルフの学習を行った。こうした組織学習は業績悪化で会社の先行きに悲観的であった従業員の意識を変革し、生産効率の改善による会社の将来へ希望を持てるようになった。また、従業員は、自らが学習することで成長し、仕事で成果をあげる自己実現欲求をポルフによって満たされることになり、ポルフ導入で優秀な人材の離職も止まった。
 東洋農機は農機具市場の低迷に対してコスト削減に努める一方、農機具市場以外への事業分野進出を考えていた。そこで、1986年に北海道木材高度利用技術研究組合が設立され同社も参加したが、同社の技術を活かして利益をあげるのは難しいと判断し、組合から脱退した。1989年4月に、初代目社長の息子で三代目社長であった山田武代表取締役がその座を太田秋夫氏へ譲った。太田秋夫新社長も、芽室農機工業の社長で、東洋農機の二代目社長であった太田源二氏の息子である。いわば合併した山田トンボ農機と芽室農機工業のたすき掛け社長人事を創業家の間で行い、組織の融和を図ったわけだ。太田社長は、自らが働きかけて導入したポルフによる工場の改善の成果を見て、会社全体の経営改革にも利用することにし、同社の経営システムの中心に据えた。農機具市場が縮小傾向の中で、持続的競争優位を構築するためには、人材という経営資源の活性化と、人材から生み出される組織能力を向上が必須だからである。

C 新たな成長へ向けて
 農機具市場縮小傾向に対して、東洋農機はまず、ターゲット顧客の拡大、製品の多様化、製品の高付加価値化で適応しようとした。東洋農機の製品は北海道のジャガイモ農家向けのニッチ市場を対象に商売をしていたが、1991年に十勝の家からジャガイモを買い入れていた食品メーカーのカルビーの紹介で、ジャガイモ収穫機を北海道と並ぶジャガイモ産地である鹿児島へ出荷することになった。カルビーは鹿児島にポテトチップ工場を建設し、鹿児島の農家からジャガイモを買い入れるため、鹿児島のジャガイモ農家の生産性改善に東洋農機の農機具を利用しようと考えたようである。この年には北海道拓殖銀行が行っている北海道の活躍する中小企業を表彰する「たくぎん基金のフロンティア奨励賞」を受賞した。東洋農機は農地面積の広い北海道の農家向けにジャガイモ収穫機を製造していたが、1994年に北海道以外の農地面積が狭い地域向けの小型自走式芋類収穫機を農林水産省の外郭団体から研究受託し、開発することになった。また、同じ年に北海道立工業試験場と共同で近赤外線を利用して石や土の塊を選別除去し、収穫の効率を上げる装置の開発を始めた。石などを除去する装置は機械式で8年前から開発していたが製品化できず、近赤外線を使う方式に変更したのである。しかしながら、この装置は近赤外線を使う方式はコストがかかり、販売できる価格にまでコストダウンできず、開発を継続中である(2000年現在)。1995年に福沢トラクターと共同で、農地の株間除草をできる省力型高度除草機「東洋スプリングカルチ」を開発し、1台120万円で秋から発売し始めた。この製品は同社の売上比率の10数%を占める程度にまでなっている。製品の多様化や高付加価値化のために積極的な製品開発を進め、こうした同社の研究開発戦略に対して、中小企業振興基金協会、北海道通産局、北海道地域技術振興センターから補助金を与えられた。
 一方、1993年2月、東洋農機は芽室町にある金網製造をしている小規模企業から営業権を譲り受け、農機具以外の事業へ進出することになった。これは後継者難から事業を売却したがっていたこの小規模企業が北海道拓殖銀行へ事業売却の話を持ち込み、拓銀は東洋農機へこの案件を橋渡ししたのである。この小規模企業は庭の金網フェンスを作り、北海道を中心に5,000万円程度の年商をあげていた。東洋農機は農機具の専業メーカーとして、北海道メーカーの中で第2位の地位を獲得しているが、農機具市場が縮小しているため事業の多角化を考えざるを得ない状況であった。金網フェンスの製造と農機具製造では直接的営業シナジーや技術シナジーはない。しかしながら、この小規模企業が固定した顧客を獲得していることと、東洋農機のスケールメリットを生かした原材料調達により原材料価格の低減が見込めることと、余剰人員の受け皿になること、などの理由から、東洋農機は営業権を買収することにしたのである。買収した金網フェンスの事業は東洋農機の傘下で着実に成長し、屋根付き駐車場などの商品を加えて、1999年度で1億5,000万円程度の売上規模にまでなっている。
 農機具製品の売上を増やすために製品の数を増やした結果、東洋農機は多品種少量生産になってきた。多品種少量生産になると、規模の経済性が働きにくくなり、製造コストが上昇してしまう。そこで、同社は製品の基本構造を共通にすることでコストを抑制し、オプションで顧客の多様なニーズに対応できる製品種類数を確保する、マス・カスタマーゼイションを行った。一方、多様な製品やオプションの開発のために、1996年に3次元CADシステム導入し、開発時間の短縮と設計の高度化を図る。例えば、ジャガイモ収穫機はこれまで設計から生産までに5年間を要していたが、3次元CADで開発機関を半分に短縮できるようになり、多品種少量生産化を設計面から支援する。また、同社の得意にしている機械系技術以外の新技術を獲得するために、通産省の外郭団体が主催する「地域コンソーシアム研究開発事業」を決めた。北海道が推進する十勝圏産業クラスター研究推進会議へも参加し、どん欲に新技術を獲得しようと試みている。しかしながら、こうした共同開発やコンソーシアムからビジネス・ベースの成功を得るのは難しく、1999年に真鍋産業が企画した土壌被覆材を散布する機械を頼まれて開発したが、失敗に終わり、東洋農機はこの製品からは手を引いている。
 東洋農機はこれまで、明治時代に山田農機製作所を創業した山田兄弟の創業者一族が代わる代わる社長へ就任してきた。しかしながら、1999年4月に渡辺純夫副社長が非創業家以外から初めて社長へ就任し、太田秋夫社長は会長へ退いた。渡辺新社長は高校卒業後、帯広の会計事務所へ勤務し、そこで山田トンボ農機や太田農機具製作所の経理事務の相談を受けるようになった。そして、1967年の東洋農機設立や、1969年の東洋農機、山田トンボ農機、芽室農機工業、山畑農機の合併を支援する過程で東洋農機の経営陣との関係を含め、同社への参加を強く望まれた。そして、合併が完了して2ヶ月後に東洋農機へ入社する。同社入社後は主に経理、財務の仕事を中心に行い、東洋農機成長のための資金管理を一手に担ってきた。1997年には社長含みで専務取締役副社長へ昇格し、2年後に満を持しての社長登板となった。渡辺社長は非創業家一族ではないが、東洋農機の設立から深く関与し、いわば創業メンバーの一人と言ってもよく、社長就任は順当な人事と言えるであろう。しかしながら、会計事務所出身という、これまでの社長とは異なるキャリアを持ち、キャッシュフロー重視の経営が叫ばれている昨今で財務能力の長けた渡辺氏を社長へ昇格させることで、東洋農機の経営を改革しようという意図が太田会長と三代目社長であった山田武取締相談役にあったのではないかと推測する。また、東洋農機には山田政功専務取締役と太田耕二専務取締役という創業一族の若い三代目が要職に就いており、渡辺社長は次世代の会社を担う彼らのコーチ役としても期待されているのかもしれない。
 東洋農機は高い研究開発力と生産技術力を活かして製品作りを行って、市場から高い評価を受けてきた。共同開発による製品もあるが、自前で開発し、部品も内製が多い。そうした製品戦略とは異なり、1999年5月から英国のリチャード・ピアソン社と業務提携し、同社が開発した、種まき前に石などの不要物を取り除いてジャガイモを栽培する農法を行うための、ジャガイモ栽培用機械を輸入販売することになった。たまたま東洋農機の技術者が渡欧した時にリチャード・ピアソン社の機械を見出し、北海道でも売れそうなので東洋農機が日本へ輸入することを決めたのである。リチャード・ピアソン社のジャガイモ栽培機を使うことで、でんぷん質の均一の良品ジャガイモが2割り増しで収穫でき、株間の石を除去する手間やジャガイモの選別する過程を容易化できるため収穫作業効率も2倍になる。英国製のジャガイモ栽培機を東洋農機が販売することで、ジャガイモの栽培から、育成、収穫までの一連の農作業をカバーする製品ラインアップが完成し、顧客シェア(顧客が買う東洋農機製品の総額/顧客が農機具へ支払う総額×100)を高めて同社の売上を増加させることが可能になる。ジャガイモ農家の顧客を囲い込み、顧客の生涯価値(Life Time Value)を高める戦略である。2000年からリチャードピアソン社の製品を本格的に販売する。そして、2003年度をめどに、リチャード・ピアソン社からライセンスを獲得し、東洋農機が生産する計画も立てられている。
2.農機具業界の成功の鍵と経営戦略
日本の農業機械業界は日本の農業の盛衰と、年毎の収穫の変動を受けてきた。日本は財政難による農業支援政策を転換する1990年代まで、食糧自給率を高め、農業者の保護育成する政策を採ってきた。そのため、農業の生産性を改善する農業機械に対する需要は、年毎の豊作と不作の影響はあるものの、増加傾向であった。特に東洋農機の主力市場である十勝地方は、大規模農業者育成の国策の恩恵を受けてきた。しかしながら、1960年代後半から輸入の自由化によって、大規模農地向けのヨーロッパの大型農業機械が国内市場へ参入してきた。当時の日本製農業機械とヨーロッパ製農業機械の品質や価格の比較において、ヨーロッパ製農業機械の競争力は高く、国産メーカーの市場シェアを奪うことになった。そのため、日本の農業機械メーカーは製品品質の向上と生産コストの低下に努め、1980年代にはヨーロッパ製農業機械を凌駕できるところまで、国産メーカーの製品は向上した。
 北海道内への農業機械の出荷金額は、農家数の減少、農業作付け面積の減少、農業機械に対する国庫補助金の廃止、農業機械過剰など、構造的要因によって1980年をピークに減少傾向にある。また、年毎の豊作や不作といった農家の収入の変動によっても影響を受けてきている。農家の戸数は減少して1機種当たりの販売台数は減少しているが、残った農家一戸当たりの作付け面積は拡大し、そうした大規模農家は高性能機種へ需要をシフトする傾向にある。しかしながら、作付け面積の拡大ほどには収入の伸びず、負債圧縮に努める農家の中には中古農業機械や安価な輸入機械へ目を向けるようになったり、農業機械の買い換え時期を延ばしたりするようになっている。その結果、農業機械メーカー間の競争激化から乱売合戦になりやすい競争構造である。北海道の農業機械の市場は稲作向けの市場と、それ以外の多様な種類のニッチ市場から形成されている。稲作向けの市場は国産の大手メーカーが市場を抑えており、それ以外の個別農産物のニッチ市場において製品特化戦略を採用する中小の農業機械メーカーが押さえている。作付け面積の広い北海道内と作付け面積の狭い道外の農家では、農業機械へのニーズが異なるため、北海道の農業機械メーカーは道内畑作でしか通用しない特殊農機のニッチ市場にとどまり、ニッチ市場で高い競争力を得てきたのである。また、特定のニッチ市場向けには複数の製品を持つものの、複数のニッチ市場で高いシェアを得られず、製品の多様化が進んでいない。そのため、リスクの分散が十分でなく、季節変動も受けやすくなっている。
 顧客である農業者の消費意欲が低下し、農業機械市場が縮小する状況で、農業機械市場における成功の鍵は何か。製品面においては、多様な製品ラインを持たないため、新奇性の高い、今までにない新製品以外は買い換え需要が中心になろう。買い換え需要に関して、新機種を導入するコストに対して農産物の付加価値を高める、生産性を改善させる、省力化による農作業の軽減、などメリットを与えなければ、なかなか買い換えが発生しないであろう。そこで、重要なのは顧客ニーズに合った、もしくは潜在的なニーズを引き出せる製品を企画できる能力と、その企画を高い品質となるべく低価格で製品化できる技術力である。生産面においては、安定して高品質の製品を生産できるかどうか、生産コストを抑制できるかどうかである。販売面においてはホクレンなどの販売チャネルを抑え、資金回収コストを低下することが成功の鍵であろう。また、メーカーは1回だけの農業機械販売で収益を挙げるのではなく、農業機械に付随するメインテナンスや関連機械を販売し、買い換え需要も獲得することで、顧客の生涯価値によって収益をあげていく、one to one marketingも重要になる。一度、ニッチ市場で高い市場シェアを獲得したら、その市場でシェアを維持することが求められる。そのため、ホクレンなどの販売チャネルへ依存するだけでなく、農業機械メーカー自らがエンド・ユーザーに深く食い込む営業戦略が必要であろう。
3.競争戦略とコア・コンピタンス
北海道の農業機械メーカー約20社の年間出荷額は1999年度で約200億円で、東洋農機は約22億円の売上を得ている。同社は畑おこしから施肥、除草、収穫までの畑作農家向け機械を総合的に取り扱っている。生食・加工用の大型ジャガイモ収穫機というニッチ市場でのシェアは6割を獲得している。15年前にはマーケットシェアが4割弱なので、着実にシェア・アップを遂げている。このジャガイモの掘り出しから選別、搬出までを行う主力のジャガイモ収穫機「ポテトハーベスター」は同社の売り上げの4割を占める。農業機械の販売は5割強が十勝地方、4割強が十勝地方以外の北海道内向けである。北海道内での競争優位を背景に、北海道内向けの収穫機を、小回りが効き、サツマイモにも使えるように原動機と作業機を一体化した自走式収穫機を開発して北海道外へ積極的に販売する戦略も1990年代中盤から採っているが、その成果は十分現れていないようだ。
東洋農機の競争戦略は、研究開発を重視して高付加価値農機の開発を行う一方、需要の減少と輸入品の価格攻勢に対して販売だけでなく農家のコンサルタントとなり、顧客へ密着したサービスで価格競争を避けるという差別化戦略である。ジャガイモの国際的な価格競争力を付けるため、生産コスト低減に向けて規模の拡大を図る農家のニーズにマッチした製品の開発と、農業者の高齢化に即した労力低減の製品の開発というコンセプトで、ターゲットを絞った製品開発を行っている。研究開発費には売上高の7〜8%程度を支出し、全従業員の約1割が開発部門を担当している。農家へのアンケートを定期的に行い、ユーザーの声を積極的に製品へ反映する。高齢者や女性にも使いやすい農機具の開発のため、デザインの外部委託も行っている。製品の高付加価値化による差別化を図る一方、部品の共通化とワンタッチ組立を推進し、生産管理手法である「ポルフ」を導入して、競合製品に大きく差を付けられない程度に生産コスト低減と、製品品質向上を推進している。
中小企業は経営資源と組織能力の制約から、少数の製品ラインだけしか持たない企業が多い。こうした戦略は手堅いものの、その製品の需要に関する成長性や他社製品の脅威といったリスクを抱える。東洋農機も、農業機械市場の中のジャガイモ収穫機という細分化された市場を中心として製品を生産販売し、アフターサービスや下取り中古製品の販売でさらに利益をあげるビジネスモデルを持っている。その限定された製品ラインで圧倒的競争優位を構築し、その後、細分化された農業機械の他の市場へ参入を試みているが、当初の目標を達成できていない製品もあるようである。その理由は、参入しようとしたニッチ市場に既に競争優位を構築している企業がいて攻めきれない、潜在的需要を顕在化させられる製品を開発できなかった、ブランド、販売網、技術などジャガイモ収穫機市場での競争優位を活用できなかった、などの理由が考えられる。一方、ジャガイモを栽培し、収穫するまでの一連の農作業プロセスで利用される除草機などのように、東洋農機の売上へ寄与している製品も出てきている。最近ではリチャード・ピアソン社との提携により、ジャガイモ栽培機を東洋農機の製品ラインへ新たに加えたが、競争力を持ったジャガイモ収穫機とシステム販売できるのならば、両製品は相乗効果を生みやすいため、収穫機の競争優位をより有効に栽培機へ活用できる可能性は高い。東洋農機は、1993年にフェンスやガレージを生産販売している小規模な金網メーカーから営業権を買収したが、このメーカーの事業とは販売シナジー以外のシナジーはあまりなかった。しかしながら、東洋農機の製造技術の投入や東洋農機による原材料の一括調達によって、生産コストが下がり、金網メーカーが一定の市場シェアを確保していたこともあって、フェンスやガレージ製造の東洋農機に対して買収のための投資以上に貢献をしているようである。
 東洋農機の競争戦略は同社のコア・コンピタンス(中核的組織能力=Core Competence)を十分活かし、戦略自体が外部環境に適合しているから成功しているのである。それでは、東洋農機のコア・コンピタンスは何であろうか。同社のコア・コンピタンスを大きく向上させることになった契機は、2回あったと考えられる。まず、1969年の合併に端を発する組織統合の混乱から、1971年に日本生産性本部から経営コンサルタントを招き、経営全般の改善を図ったことである。外部からの最新の経営手法を導入することで、合併で混乱した組織内部に生産から営業までの効率の良い業務プロセスを構築できた。この効率化された業務プロセスが合併前の山田トンボ農機、芽室農機工業、山畑農機具の持っていた能力に加わって、新しく東洋農機のコア・コンピタンスになったと考える。そして、東洋農機のコア・コンピタンスをさらに発展させることになったのが、1980年代中盤の、作業改善、工程管理、生産のスピード化、生産の平準化、工場従業員の能力開発などで具体的な実行指針と評価を体系化したポルフの導入によるところが大きい。それらに加えて、ポルフの目指すものは単なる生産効率の上昇や品質管理といった工学的な分野だけではなく、「働きがいのある明るい職場作り」と組織変革と広範囲なものである。そのため、組織学習や組織文化といった競争優位構築に重要な役割を組織能力の開発へ大きな影響を及ぼした。全社を16の小集団に分け、毎月項目別発表会を行い、収益性改善の手法を従業員によって考えてもらう一方、従業員は自ら学習し、考える能力を発揮する場を与えられ、成長欲求の動機づけになっている。また、工場内の各工程を店と見立て、工場の中に顧客と店の関係を作り上げ、擬似的市場原理を工場内に導入している。この疑似市場原理の導入によって、工程間の競争関係を生み出し、責任の明確化と相まってコスト意識を高めている。ポルフ導入によって従業員の意識とその集合である組織文化を、経営悪化による不安に満ちた後ろ向きなものから、自らが成長して会社へ貢献するという前向きなものに改革した。組織文化は東洋農機のDNAとして、同社の持続的競争優位の源泉になっているようだ。
東洋農機のコア・コンピタンスは生産を中心としたものだけではなく、十勝という一大農業地域に根ざし、顧客もニーズを具現化したり、新しい農業の方法を提案する、顧客へ新しい価値を創造する能力のようなマーケット・インのシステムも重要なコア・コンピタンスと考えられる。営業部門が需要者である農家に対してコンサルタントとして入り込み、顧客関係性マーケティング(Customer Relationship Marketing)によって一世帯の顧客から長期的に利益をあげていく体制を取っている。こうした戦略は短期で構築できるものではなく、長期にわたって構築されたもので、農業者と東洋農機の信頼関係は同社にとって重要な経営資源である。また、営業社員とエンジニアが協働して顧客のニーズを吸い上げ、製品開発へ的確にフィードバックする体制ができている。顧客のニーズを製品化し、コストを抑えながら高品質の製品を生産し、需要者に深く食い込んだ営業力で販売する統合されたコア・コンピタンスが、東洋農機の競争優位の本質であると考える。
4.業界環境の変化と組織間戦略
中小企業は、経営資源や組織能力を十分持たず、企業が生き残るための最小限の経営資源と組織能力しか持たないことが多い。場合によっては、中核的な経営資源や組織能力も必要十分の量と質を保有していないこともある。そのため、提携や合併といった組織間関係によって、必要な経営資源や組織能力を一時的もしくは持続的に獲得しなくてはならない。組織間戦略を活用し、自らの競争優位構築に貢献させられるかは、経営において重要な課題になる。東洋農機も合併を前提にして設立され、成長の糧とした。
 戦前と戦後間もない頃の農業器具の製造は家内工業として事業を開始でき、そのため、小規模な事業者が乱立しやすい事業特性であった。加えて地域ごとの農業の特性に合わせた農機具を供給するために、地域の農家へ農機具を供給できるだけの生産規模で十分であった。しかしながら、農業機具が単純な道具から機械や動力の技術を利用した複合システムへ発展するに従って、小規模な業者では技術革新に対応できなくなる。また、農業機具から農業機械へ進歩するに従って、設備投資も大型化することになった。食料増産の農業政策の中で、農業の生産性向上のため、より進んだ農業機械が求められるようになっていった。そのため、規模の経済性の追求が低コスト優位構築のために必要になり、必然的に自営業から法人形態の事業へ、法人形態の事業でもより大規模な企業へ成長していかなければ競争に勝ち残っていけないようになっていった。国も中小企業の経営基盤安定のために合併を促進する施策を採っていた。こうした業界の流れの中で、1960年代中盤に兄弟で別々に行っていた農業機具製造事業を統合する話が持ち上がったことは、自然の成り行きと言える。また、農業機械の市場は農家の所得の変動によって大きな影響を受けるため、農産物の凶作による市場の低迷は、業界再編成のきっかけを作り出すことになる。業界の競争構造や収益構造の悪化は、弱者を淘汰し、強者しか生き残らせない。競争優位を構築して勝ち残るためには、市場支配力による販売強化や規模の経済性による低コスト体質の確立が必要になる。東洋農機の設立のきっかけは、農業機械市場の不況による北海道農機の倒産に伴う工場買収であった。
 いくら兄弟が経営していたとはいえ、異なる経路で成長してきた2つの企業を合併することは、合併することも、合併後の経営も困難がつきまとう。合併に当たって、吸収される側の反発による合併計画の破談や組織統合後の従業員のモラルダウンを避けるため、吸収合併という形を避けようと、太田農機具製作所は新井農機具製作所と合併して芽室農機工業を作り、その後、山田トンボ農機と芽室農機工業の経営者が個人的に出資して東洋農機を設立。その新会社に山畑農機具も出資して、東洋農機を存続会社とする山田トンボ農機、芽室農機工業、山畑農機具の4社の合併という複雑なスキームを使っている。こうした複雑な合併方法は、規模の小さな企業の合併に対する懸念を抑え、存続会社のいっそうの規模拡大を可能とする一方で、組織統合を複雑にする、余剰経営資源の発生というデメリットも大きい。例えば、東洋農機でも、合併直後は顧客管理を統合できず、それぞれの旧会社ごとに顧客管理を行っていたため、ライバル意識が過剰となり合併による営業のシナジーが現れにくかった。また、合併前の各社の経営システムや組織文化などの差異を短期間で統合できず、組織の中でコンフリクトを発生させていた。加えてこの機会に手形決済を取り入れ、合併後の混乱からその回収がうまくいかずに新会社の業績の足を引っ張ることになった。また、合併を行うと、通常合併後に経営資源の余剰が生まれる。こうした余剰の経営資源を新規事業へ転用するか削減しなければ重荷になってしまい、合併による売上増加分を帳消しにしてしまう。特に直接的に売上へ貢献できる部門以外の、バックオフィス部門が余剰になることが多い。合併後の東洋農機は、時間差があるものの4社の合併で余剰人員が合併に関わった会社の数だけ増えてしまい、そうした余剰人員を合併した各社が互いに遠慮をして十分削減できなかった。その結果、売上高人件費比率が高くなってしまい、東洋農機の収益性をいっそう悪化させた。
 1999年5月には、東洋農機の技術者が海外視察で見かけたのがきっかけとなり、英国のリチャードピアソン社と業務提携し、2000年5月、東洋農機はリチャードピアソン社の栽培機をシステム価格1,000万円程度で販売を本格的に始めた。東洋農機は、ジャガイモ栽培機に関して他社に対する差別化が十分でないことと、経営資源をジャガイモ収穫機の開発、生産、販売に集中するため、リチャードピアソン社の販売する栽培機を主力製品としていなかった。その結果、リチャードピアソン社の栽培機は東洋農機の収穫機と補完関係になり、輸入販売をスムーズに始める要因となった。リチャードピアソン社にとっても、東洋農機と提携することで、多数のジャガイモ農家の顧客を確保し、日本での販売が期待できる。ただし、輸入して販売するだけでは付加価値も低く、価値を取り込み、工場の稼働を平準化するメリットがあることから、2003年度をめどに東洋農機が生産ライセンス契約を獲得して国産化する意向を持っている。こうした資本関係などを行わない戦略的提携は、組織間関係の解消による競争優位の消滅の危険性は懸念されるものの、経営の自律性を維持し、環境へ柔軟に対応していく大きな武器になる。資本提携を伴わないことで提携への障壁を下げ、複数の企業と同時に戦略的提携を行うメリットがある。そして、提携相手の経営資源や組織能力に依存しながら競争優位を確立し、組織学習によってそうした経営資源や組織能力を吸収する。しかしながら、戦略的提携は提携相手にメリットがなければ、成立しない。提携相手の競争優位に対して自社がどの程度貢献できるかが、戦略的提携を成功させる前提になる。東洋農機にはジャガイモ収穫機の販売を通じて獲得したジャガイモ農家の顧客という資産があり、この資産がリチャードピアソン社の提携に対する誘因になったのである。
 戦略的提携によって自社の必要な経営資源や組織能力を獲得する方法以外に、中小企業は公的機関から資金を調達したり、公的機関との共同研究開発によって製品技術を獲得する組織間戦略も重要になる。東洋農機は技術力が高く評価され、北海道通産局や北海道地域技術振興センターの「ほくでん産業技術振興基金」から助成を受けた。また、通産省の外郭団体「新エネルギー産業技術総合開発機構」(NEDO)の「地域コンソーシアム研究開発事業」から、北大、道立工業機械試験場と共同で進める大規模農家向けの自動走行・作業機械の開発に対して約3億円の資金援助を受けた。こうした公的機関や準公的機関から助成を受けることで直接的に資金を手に入れることができるが、一方で公的機関の助成を受けることで民間金融機関から信用され、民間金融機関からの融資を受けやすくなるメリットもある。東洋農機は創業者の出身地のつながりから、北陸銀行がメインバンクであるが、基礎技術の開発のように、製品化して資金回収までのリスクが高い用途の資金は公的助成を利用するようにする。基礎技術の研究は東洋農機にとって必要であるが、製品化して研究開発費を回収できるまでの期間が長く、リスクも高い。そうした基礎技術を公的研究機関や大学と共同研究することは、経営資源を製品へ直接的にフィードバックできる技術へ集中的に投入できるメリットがある。