地域本社 |
5月決算 |
1993年度 |
1994年度 |
1995年度 |
1996年度 |
1997年度 |
栗山 |
売上高 |
17,748 |
16,859 |
15,380 |
18,451 |
13,128 |
|
純利益 |
-23 |
15 |
-19 |
21 |
-3 |
空知 |
売上高 |
1,316 |
1,144 |
1,413 |
1,590, |
1,527 |
|
純利益 |
2 |
-63 |
43 |
70 |
10 |
札幌北 |
売上高 |
1,479 |
1,344 |
1,413 |
1,590 |
1,527 |
|
純利益 |
20 |
5 |
7 |
18 |
13 |
札幌東 |
売上高 |
1,019 |
887 |
800 |
978 |
963 |
|
純利益 |
17 |
-5 |
7 |
18 |
13 |
札幌西 |
売上高 |
1,056 |
900 |
874 |
993 |
923 |
|
純利益 |
8 |
8 |
9 |
0 |
-10 |
札幌南 |
売上高 |
1,467 |
1,467 |
1,233 |
1,520 |
1,356 |
|
純利益 |
4 |
-18 |
-36 |
52 |
5 |
十勝 |
売上高 |
|
|
|
232 |
448 |
|
純利益 |
|
|
|
3 |
-2 |
(東京商工リサーチ企業情報より:単位百万円)
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起業家山口昭 木の城たいせつグループは、北海道夕張郡栗山町に本拠を置く木造住宅生産基地と、9の地域販売・施工子会社を有する、住宅の生産、販売、施工までを行う住宅総合会社である。木の城たいせつグループは山口昭氏が一代で築き上げた。山口氏の生い立ちや木の城たいせつグループを成長させていく過程は、山口氏の自叙伝「もったいない」(ダイヤモンド社、1994年)に詳しいので、ここでは多くを述べない。山口氏の半生で重要なポイントを指摘すると、祖父の山口藤三郎氏と父親の山口源市氏が浜益村千代志別に築き上げた、千代志別地域で自己完結する循環経済システムの経営手法から強い影響を受けていることである。特に父親の源市氏は経営能力に長け、千代志別を囲んでいる森林資源を活用し、木材販売、製材、造船、下駄製造、木炭製造を事業として手がける一方、廃材も燃料に使用するなどして資源を有効活用した。山口氏は千代志別を出るまでの16年間、このような環境の中で生活し、自然と共生する精神、資源を有効に活用する「もったいない」の精神、経営の本質を学んだと考えられる。 山口氏は山口家の跡取りである兄との確執から故郷を離れ、浜益村で宮大工の修行をした。この時に大型木造建築の技術を学び、これが後に高級木造建築を事業とする時の技術基盤となったと考えられる。1952年、山口氏が21歳のときに札幌へ出て工務店で働き始める。積雪のある冬期に仕事を行わない北海道の建設業界の常識に疑問をいだいたのもこの頃である。その後、独立し仕事を請け負っていた。1959年に設計士の前田敏雄氏と出会い、前田氏の設計する本格木造高級注文住宅を建設していった。山口氏の技術者として優れているのは、既存の技術や設計を常識と考えず、常識を離れて問題を解決しようとする姿勢である。当時の北海道の家は三角屋根であったが、落雪による事故が絶えなかった。そこで前田氏と山口氏は無落雪の屋根を開発し試した。当初は失敗が続いたが、徐々に冬に強い住宅の設計建築ノウハウを蓄積していった。おりしも岩戸景気の恩恵で住宅需要も高く、山口氏が1960年に設立した匠建設の業績は順調に伸びていった。しかしながら、1964年末に火事があり、匠建設は焼失し、倒産に追い込まれた。1965年に弘匠建設を設立し、再起をはかる。その一方で、北海道の冬に合った建築を開発するために、1968年に耐雪構業株式会社を前田氏と共同で設立し、スノーダクト方式の住宅の研究に努める。この会社がのちの株式会社木の城たいせつの前身となる。耐雪構業はスノーダクト方式の住宅建築を受注設計し、新川の工場で生産し、弘匠建設が施工するという分業システムを取り入れるが、当初は組織間の権力争いが生じ、なかなかうまく機能しなかった。山口氏はスノーダクト方式の技術の賭けるため、この方式による住宅建設のみを取り扱い、背水の陣をひいた。また、施工の段階で下請け業者を利用するという住宅建築業界の常識に反して、直営責任施工のトータル・システムを構築した。1970年の売上高は1億8千万円程度となっていた。北海道マイホームセンターや新聞広告などで、耐雪構業のブランドである「耐雪ハウス」の名前は消費者に浸透し、価格は高いもののファンを増やしていった。それとともに、大手住宅メーカーとの競争が激しくなっていった。1974年には「耐雪ハウス」の基本的技術的を開発し終え、また、当初反対が続出したものの通年施工を実現した。その結果、会社の業績は大きく伸長し、黒字決算を残せた。
A
木の城たいせつ誕生 通年施工によって冬期間の施工が新たに加わり、新川工場の生産規模では対応できなくなった。また、工場の周辺が宅地化されてきたため、環境問題へ配慮しなくてはならなくなった。そこで、夕張郡栗山町の工業団地へ工場を移転することになる。第1期工事には15億円必要となり、地元銀行からは融資を受けられなかったため、地域振興整備公団と北海道東北開発公庫から融資を受け、1977年から工事を着工した。また、政府系金融機関からの融資をもってしても当初の投資計画の15億円は集まらず、建設業者と掛け合って7億5千万円で工場を建設してもらった。1977年末に最大年間生産棟数1800の最新鋭工場「住材高度加工物流センター」が完成し、翌年4月には生産を新川工場から全面的に切り替えた。1980年に連結売上高は102億円にまでに急成長している。北海道の厳しい自然条件の中で100年もつ家を作り上げるため、2mの鉄筋コンクリートの半地下を作り、その上に耐雪ハウスを建築するという新しい設計を完成させた。しかしながら、価格がいっそう高くなってしまい、当初は営業面で苦戦を強いられた。そのため、半地下の基礎工事を外注しないで自前でやることでコストダウンを行った。 1984年に山口氏は糖尿病で入院し、同年、妻の登美子氏が心労で倒れた。山口氏は入院しながら、家族の健康を守る家を作る構想を考えた。それは100年間もつ頑丈な家であること、内部に木を豊富に使用し呼吸する家であること、3世代が同居できる家であること、を目指したものである。1986年に新ブランド「木の城」を導入し、それを期に全社のCI改革を行って、株式会社耐雪構業から株式会社木の城たいせつへ社名を変更、会社のイメージを一変させた。CIは対外的イメージの工場だけでなく、社員の意識改革を同時に行う。1987年には用地を拡大し、生産工場としての栗山工場の機能を充実してきたが、1989年には本社を生産工場と同じ6万坪の栗山の敷地内へ移した。こうして栗山へ企業の機能を集約することで生産規模と効率も高まり、同社の住宅の性能が評価されて増加した販売へ、十分対応可能な生産体制となった。企業の規模が大きくなるにつれて、組織は機動性や柔軟性を失いやすくなる。また、生産規模を拡大したことに伴って、営業を強化する必要が出てくる。そこで、1988年に販売部門を分社化し、地域本社制度を採用した。地域本社制度は、住宅販売に必要な地域密着の営業活動を可能にし、また、6人の新社長を生み出したことで従業員の仕事への動機づけになった。バブル経済崩壊以降の影響があるといえ、1995年度の連結売上高は600億円、従業員数は1300名の規模にまで成長している。 木の城たいせつの名前は北海道で十分浸透したが、社会におけるエコロジーへの関心の高まりから山口氏の哲学や同社の住宅作りは、北海道でしか事業活動をしないにもかかわらず世界的に評価を受けるようになった。また、奥尻島地震の時に証明された頑丈さや、「世界でいちばん住みたい家」(赤池学・金谷年展著、TBSブリタニカ、1998年)で絶賛された人間に対してやさしい家というコンセプトは、北海道以外の地域でも注目を集めることとなった。木の城たいせつは北海道で生まれた、北海道人による北海道のための住宅総合企業であるが、今や世界的知名度を持つ企業となっている。木の城たいせつの創業オーナーである山口昭氏は68歳のご高齢にもかかわらず、今も元気にグループ全体の経営と北海道の冬を研究することに没頭する、忙しい毎日を送っておられる。
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