File NO.004 釧路河畔開発公社
1.沿革

表:釧路河畔開発公社およびMOOの業績

年度 売上高 経常損益 当期損益 累積損失 MOO売上高 MOO入場者数 平均購買単価
1989 631 -71 -71 -71 2,101 1,663 1,263
1990 816 -343 -343 -414 2,639 2,218 1,190
1991 812 -397 -397 -811 2,706 2,342 1,155
1992 711 -373 -373 -1,118 2,627 2,134 1,231
1993 689 -355 -353 -1,539 2,547 2,069 1,231
1994 842 115 115 -1,424 2,285 2,054 1,112
1995 873 101 101 -1,323 2,160 1,997 1,082
1996 971 111 111 -1,212 2,163 2,041 1,060
1997 950 130 130 -1,082 1,959 1,849 1,059
1998 900 140 140 -942 1,761 1,784 987
1999 908 24 6 -918 1,734 1,826 950

注意:単位はMOO入場者数(千人)、平均購買単価(円)を除き百万円

@ 釧路フィッシャーマンズワーフ構想
フィッシャーマンズワーフ(Fisherman's Wharf)。これは60年以上も前に米国のサンフランシスコで郊外のフィッシャーマンズワーフと呼ばれる波止場付近に、カニやえびを食べさせるレストランや屋台ができ始め、やがて賑わいを見せるようになっていった。そこから、海辺の海産物店やレストランの集まった商業集積を、フィッシャーマンズワーフと呼ぶようになっていった。日本では1984年に福井県若狭湾で、若狭フィッシャーマンズワーフという民間商業施設が生まれ、フィッシャーマンズワーフの名前が知られるようになった。それよりも3年前、北海道の釧路市において、釧路の主要産業であった水産業と石炭産業が産業として勢いをなくすリスクがあったため、若手経済人が中心となって新しい産業創出のための「観光漁港ショッピングセンター構想」を打ち出した。倉庫といった既存の港湾施設を活用することで金をかけず、観光客と地域市民に水産物を販売し、釧路港に賑わいを取り戻そうという発想であった。そして、1985年に策定した「新釧路総合計画」の中に名前を変えて「釧路フィッシャーマンズワーフ」として本格的に取り組むことを示した。また、同年に釧路市民45名で構成する「釧路FW推進委員会」を発足させ、翌年に釧路のウォーターフロントにおける広域地域活性化の構想をまとめた。これは、この年の5月に制定された「民間事業者の能力の活用による特定施設特定施設の整備に関する臨時措置法(通称、民活法)」の中の港湾利用高度化施設を想定し、策定されたと考えられる。港湾利用高度化施設の建設案が浮上した理由は、他省も民活法による補助金を制定する状況で、運輸省がこの制度を利用した第1号としての実績をあげるために、釧路市へ積極的に働きかけたようである。
その構想は、老朽化しつつある釧路港東港区の港湾施設を積極的に再開発することで、物流機能の集約、旅客ターミナルや文化交流施設によって生まれる、賑わいと潤いのある空間の創出などによる、「東港区再開発計画(ポートルネッサンス21)」の中核的プロジェクトとして位置付けられた。加えて、釧路都市部再開発の性格を持っており、「釧路地域商業地域近代化実施計画」と結びつけ、釧路市の再開発型プロジェクトとして構想が膨らんでいった。素朴な地域活性化政策は、民活法の補助金支援を前提にした巨大な地域開発プロジェクトへ変貌した。計画は3段階に分かれ、FW第1次計画として、幣舞橋に隣接する旧釧路川右岸の約1.6ヘクタールを民活法認定事業である港湾旅客ターミナルを中心に、寒冷地型緑地や商業施設を昭和1987年度に着工し、1992年度に完成させることに決まった。FW第2次計画は国鉄清算事業団用地を購入し、施設の建設等に関しては積極的に外部の民間資本を導入する。導入する施設としては、国際交流施設、オフィス、全天候型イベント施設、海洋性スポーツ施設、海洋・水産関連研究施設、倉庫を活用した商業施設などで、2000年度までに完成する予定であった。第2次計画までに総事業費が300億円から500億円に達すると予想される巨大プロジェクトで、2000人の雇用増、観光客は1日1万5000人増、この地域の年間売上高は150億円から200億円を見込んでいた。

A 事業主体の決定と西武百貨店グループの参加
FW第1次計画は民活法のスキームによる資金調達を考えていたため、事業主体は三セクターが担わなければならない。フィッシャーマンズワーフ計画の商業施設や港湾旅客ターミナル建設のために第三セクターを設立することも考えられたが、釧路市は釧路河畔開発公社を事業主体とすることに決めた。釧路河畔開発公社は、1968年に設立され、設立趣旨は旧釧路川河畔にショッピングモールを開発であったが、ショッピングモールは建設計画が進まず、1987年当時の事業内容は市有地にある駐車場と緑地の管理になっていた。釧路河畔開発公社の金井社長は、1987年9月の役員会でフィッシャーマンズワーフ計画の事業主体となることを決め、設立当初の事業目的に立ち返ることになった。しかしながら、釧路河畔開発公社の資本金は1億円にすぎず、観光開発や商業施設開発のノウハウを持つ外部の民間企業などに第三者割り当てを引き受けてもらい、資本金の増資をすることに決めた。第三セクターの同公社が事業を行うことで、事業費補助、不動産取得税や固定資産税の減免、日本電信電話会社の株売却資金を原資とする無利子貸し付け、北海道東北開発公庫からの低利融資などの恩恵を受けられる。具体的には「民間能力活用特定施設緊急整備補助金」で運輸省から約8,900万円と釧路市から約4,600万円の合計1億3,500万円、北海道東北開発公庫から出資金5,000万円とNTT無利子融資を含めた融資24億円、固定資産税の事業開始後5年間の軽減措置効果約2,600万円、不動産取得税の軽減額1,800万円、NTT無利子融資13億2,000万円に対する釧路市の損失補償、釧路市からの特定施設建設協力金として3億6,600万円の利子補給、などが民活法適用認定を受けたことで得られるであろう助成措置である。反面、民活法の適用を受けることにより、商業施設ではない展示ホールや屋内広場のような特定施設が、施設の総床面積のうち2分の1を占め、その特定施設の建設費が10億円以上と制限される。同公社は1991年度までに約33億円を投じ、幣舞橋の旧釧路川右岸に港湾旅客ターミナルと釧路の海産物を扱う小売店やレストランをテナントとして入店させる商業施設を建設するという事業計画を、11月をめどに運輸省へ申請し、民活法の適用を待つことになった。民活法が適用されれば、1988年度に着工し、1989年度中に完成する予定だ。事業計画を肉付けするために、釧路河畔開発公社、北海道東北開発公庫、北海道開発局、北海道などで構成する「釧路フィッシャーマンズワーフ研究会」が8月末に発足した。この研究会がFW第1次計画を煮詰め、実行していく役割を果たす。旅客港湾ターミナルや商業施設に隣接して建設される大型温室のような寒冷地型緑地は、釧路河畔開発公社の事業ではなく、釧路市が運輸省の補助金を得て約5億円を投じて建設し、1988年度中に完成させることになった。
旅客ターミナルだけでなく商業施設を建設、運営していくために、そうした施設の経営ノウハウを持ち、集客力のあるテナントを集められる民間企業の釧路フィッシャーマンズ計画への参加が、必須となっていた。いくつかの候補企業に当たったものの断られ、釧路河畔開発公社の民間企業のパートナー探しは難航した。しかしながら、1988年1月に、小売業を中心に営む西武百貨店グループに白羽の矢が立ち、西武百貨店グループが計画へ参加することに決まった。釧路河畔開発公社の金井社長は西武百貨店グループの堤清二代表と面識があり、金井社長が堤代表へ話を持ちかけ、西武百貨店の参加が決まったのである。釧路フィッシャーマンズワーフ計画の中には採算性の低い施設もあり、観光・商業施設における利益確保が強く求められていたので、西武百貨店グループの参加は戦略的に必要不可欠だったと考えられる。一方、西武百貨店グループは、サホロリゾート事業を十勝で既に展開しており、釧路フィッシャーマンズ計画へ参加することで、北海道道東地域における事業拡大への足がかりと、フィッシャーマンズワーフ隣接地に観光ホテルを建設することでサホロリゾートとの連携を図ろうという戦略的意図があったようである。西武百貨店グループは、10名の専門家を釧路河畔開発公社へ出向させ、テナントの構成、施設の配置、マーケティングなどの重要な仕事を担当した。西武百貨店グループの参加によって、払い込み資本金を1億円から4億円とし、3億円の増資分を西武百貨店グループが1億円、北海道東北開発公庫、北海道、釧路市、地元企業数社が各5,000万円引き受けた。商業施設だけでも40億円以上にもなる事業規模に比較すれば、4億円の資本金でも過小であり、1994年に8億円への資本金引き上げも検討されていた。旅客ターミナルを中心とした商業施設は同年6月から建設が開始された。

B MOO開業と経営低迷
 1989年7月、釧路フィッシャーマンズワーフ計画の中核になる商業施設「MOO」を開業した。MOOはMarine Our Oasisの略称で、釧路のウォーターフロント再開発をにらんだ名称である。地下1階、地上5階で総床面積16,140平方メートルで、結局、建設事業費は当初の20億円台から、民活法の申請・承認段階で40億円へ、西武百貨店の計画参加によって43億円になり、最終的には約48億円までに膨らんでしまった。物販と飲食といった商業テナント73店が出店しており、MOOの総床面積の3割を占めている。残りの7割は、通路や休憩スペースといった共有部分、海洋体験施設として建設された屋内プールであった。こうした床面積の配分は、前述したようにMOOが民活法の適用事業によって建設されたからである。1階は地元の和商市場が出店した海産物を中心とする生鮮食料品店、実演即売を行う食料品店、旅行代理店がテナントとして入店しており、加えて高速豪華客船の乗船ターミナルが併設されている。2階は北海道の特産物販売店や海鮮レストラン、それに東京の雑貨店やアパレル店が入る。3階は大型ビアホールと炉端焼きの居酒屋。1階から3階までは北海道の素材をアピールした観光客向けの商品が中心であった。4階と5階は会員制の屋内プールとフィットネスクラブを併設する西武百貨店のノウハウを取り入れた公社直営のスポーツ施設「リボン釧路」が借り上げた。テナント構成に関しては、観光客向けの店が多いものの、観光客の少ない冬場に地元客を集客しなくてはならないため、地元の若者向けのブランド衣料店やスポーツクラブが入店している。建物内部は1階から4階まで吹き抜けになっており、階段やエレベーターなどもあるが、吹き抜けの周りにある段差のないスロープで上がり下がりできる特徴があった。MOOに隣接して寒冷型緑地のEGGも建設された。初年度の入場者数は100万人、売上は20億円を見込み、開業2年目には売上を30億円にまで伸ばす計画であった。釧路河畔開発公社では開業8年目に単年度黒字を、10年目以降に累積赤字を一掃する計画であった。日銀釧路支店は、MOOが開業したことによる1次効果と需要増に伴う生産誘発の2次効果の合計は42億3,100万円(域内総生産ベース)で、直接と間接の雇用誘発効果は365人と試算した。しかしながら、釧路市の中心市街地の商店街では入り込みが減少しており、MOOの影響と見られていた。
 年末には3階のレストランでクリスマスのディスコ・パーティーが開催され、地元の若者にMOOをアピールした。こうした努力によって初年度のMOOの入場者数は当初予想の1.5倍以上と好調さによってテナントの売上高目標20億円はクリアしたものの、入場者の平均購買単価は約1,200円と低迷しており、平均購買単価の上昇が課題となった。テナント構成が観光客向け土産物の雑貨や食品になっており、地元の日用品や高級衣料品の需要に対応し切れていなかったのである。飲食は計画の1.5倍の売上と好調なものの、物販は売上高目標を超していたが土産物中心なので平均購買単価も低かった。そのため、観光客の入り込みが少なくなる冬場は入場客も少なくなり、営業面で厳しかった。そこで、西武百貨店グループは平均購買単価を上げるため、1990年4月に、西武百貨店グループの生活雑貨を扱う「無印良品」と、アパレルの「ラコステ」を誘致し、「ベネトン」と「クラブメッド」などとのシナジーを働かせててこ入れすることにした。MOOのテナント収入を基盤にする釧路河畔開発公社の業績は、8ヶ月半の変則決算になったが、1989年度(3月決算)で売上高6億3,100万円、経常損益は7,100万円の赤字にとどまった。釧路河畔開発公社の社員数は68名と事業規模と比較して多く、中でも西武百貨店グループからの出向者の高い給与が人件費を押し上げた。翌1990年度は12ヶ月の会計期間となり、MOOのテナントの売上高は26億3,900万円、入場者数は221万8,000人と一見して順調に増加しているが、会計期間の長さを考えれば実質的にテナントの売上高も入場者数も減少している。これは開業効果が薄れた結果と思われる。MOOの伸び悩みを反映して、釧路河畔開発公社の売上高も8億1,600万円、経常損益は金利支払いの増加の影響で3億4,300万円の赤字となった。1991年度のMOOのテナント売上高と入場者数は西武百貨店グループのてこ入れが成功して、共に前年比で増加した。結果的には、この年のMOOの売上高および入場者数がピークになった。一方、釧路河畔開発公社の売上高は変わらなかったものの、経常損益は3億9,700万円に膨らんでしまった。

C 経営再建のスキーム
 MOOが開業してから3年、入場者数と物販は順調であったが、飲食店テナントと屋内プールが不振であった。MOOの延べ床面積の7割が公共施設であり、テナントからの賃貸収入を増やすことが難しく、金利支払いを主とした経費の増加から、釧路河畔開発公社の累積赤字は8億140万円に達していた。そのため、同公社の経営の抜本的改善策を立案するため、1992年8月に釧路河畔開発公社の金井社長と坂本副社長、釧路市、北海道東北開発公庫、北海道拓殖銀行、釧路商工会議所、西武百貨店グループからのメンバー9人によるタスク・フォースを作った。地元経済界からは釧路市主導による経営再建を強く求められた。経営改善策を立案している間に、とうとうMOOの入場者数とテナントの売上高が減少に転じ、それと共に1992年度の釧路河畔開発公社の売上高は7億1,100万円に、経常損益は3億7,300万円、累積赤字は11億7,000万円に達した。1993年にはFW 計画の第二次計画の一つである観光国際交流センターが完成したが、MOOの集客増加に対してはそれほど期待はできなかった。そこで、当初の売上目標の半分にとどまって構造的赤字体質の元凶になっている屋内プール事業を分離する、釧路市の財政的支援を仰ぐ、人員を削減する、などの経営改善策をまとめ、関係機関との折衝に入った。
 1993年12月、釧路市は釧路河畔開発公社の経営改善策を明らかにした。その骨子は、屋内プールを同公社から釧路市が借り受けて経営し、賃貸料を同公社へ支払う。そして、市有地借地料の減免、増資する際に釧路市が相当部分を引き受けるなど行政支援が中心であった。また、一方で金融機関には同公社の増資の引き受けや、5,900万円程度の金利支払いの軽減と償還期間の延期を要請した。これだけの再建策では不十分と判断した釧路市は、翌年1月に釧路河畔開発公社の増資をして資本金を倍増の8億円にする、釧路市長が同公社の社長に就任する、などの追加再建策を打ち出した。釧路市が釧路河畔開発公社の経営再建のスキームを策定する一方で、テナントの経営者はテナントの会を結成し、商品構成と価格の見直し、閉店時間の延長、周辺ホテルとのタイアップ、独自ブランドの開発、接客研修などの検討を始めた。そして、6月5日と6日を「MOOの日」として、イベントや飲食の割引を行って入場者数の増加を図ることにした。こうした再建案を考案していた1993年度の釧路河畔開発公社の決算は、MOO開業以来最低の売上高6億8,900万円、経常損益は3億5,500万円、累積赤字15億3,000万円となり、経営再建は一刻の猶予をしていられない状況になった。
 1994年9月、釧路河畔開発公社の臨時株主総会において、同公社の過半数の株式を保有する釧路市から鰐淵市長が代表取締役社長へ就任し、釧路市が同公社の経営に対して責任を負うことを内外に示した。金井前社長は引き続き取締役として経営陣に留まり、釧路商工会議所の船木事務局長が取締役へ新たに就任した。このように、人事面において釧路市と地元経済界が一体となって、MOO再建の体制を整えた。釧路河畔開発公社の経営再建策をまとめると、a資本金の倍額増資、b金融機関からの借り入れに対する3年間の元本返済の猶予と金利の軽減、c最長5年間の減価償却の繰り延べ、dプール事業部門の経営を釧路市へ移管、e事務所スペースの釧路市医師会への賃貸、f市有地借地代1,400万円の減免と釧路市からの年間5,000万円の補助金支援、g広場へのバーベキューコーナーの出店や無駄なスペースを削ってのテナント数増加、h釧路市商工会議所を巻き込んだ外商強化などであった。aの増資に関して釧路市が同公社へ3億円の出資を新たに行い、それに加えて民間企業4社が第三者割当増資に応じて、釧路河畔開発公社の資本金は8億円になった。増資によって得た資金で借入金を返済し、金利支払いを減らそうというものだ。同時にbで示されたように元本返済の猶予と金利支払い軽減を行い、こうした借入金に関する対策によって94年度は約7,200万円の金利支払いの圧縮が見込まれた。将来の負担を増やすことにはなるがcの減価償却の繰り延べによって、とりあえず約1億5,000万円の費用負担の軽減に結びつく。dのプール事業部門の分離移管は損益改善にもっとも大きく、管理コストの伴う利用者からの営業収入から、釧路市の支払う2億2,300万円の賃貸収入へと変わる。釧路市医師会への事務所賃貸からは約2,000万円の収入増加が見込まれた。

D 釧路市の支援により黒字への転換
 こうした再建策の効果もあって、1994年度の釧路河畔開発公社の売上高は8億4,200万円、MOO開業以来初めて1億1,500万円の経常利益を計上し、累積赤字を14億1,500万円に圧縮した。再建計画では1億6,000万円の黒字を目標にしていたが、予期せぬ固定資産の除却損や帳簿ミスの累積によって前期の損益修正損が発生したからである。屋内プールの年間賃貸料1億5,000万円、プール運営管理の年間委託料6,000万円、MOOの建設費補助などで年間8,000万円といった釧路市からの直接的経済的支援によって同公社が黒字化したことに対して、釧路市議会等から批判もあった。
 釧路河畔開発公社は釧路市の支援と金融機関の協力によってどうにか赤字経営から脱した1994年度に続き、1995年度は直営部門の拡大によって売上高を増やし、2年連続して経常黒字を計上した。累積赤字も13億1,300万円に縮小した。直営部門の拡大は、西武百貨店グループの良品計画が売り上げ不振のため生活雑貨店「無印良品」から撤退し、その後を同公社が直営として引き継いで営業を継続したからである。しかしながら、釧路市郊外の大型店との競争もあってMOOの入場者数とテナントの売上高が依然として減少しているため、テナントからの賃貸収入が減少しており、この業績は手放しで喜べるものではなかった。加えて増資によって資本金が5億円以上となり実施しなくてはならなくなった監査の結果、繰り延べを予定していた減価償却の一部実施が会計士から指摘され、施設の減価償却5,700万円を行ったからである。その結果、再建の達成度も計画経常利益の2億700万円を下回る1億200万円に留まった。1996年度中にはFW計画の第二次計画地区の一環として、総事業費16億円の錦町立体駐車場(1997年7月完成予定)と総事業費20億円の北海道立芸術館(1998年3月完成予定)の建設に着工することになっており、完成のあかつきにはMOOの入場者数の増加に好影響を与えることが期待された。FW計画の第二次計画地区で残っている他の大型投資は、環境体験館であった。環境体験館は水族館を中心に、音と映像で釧路湿原や海をバーチャル体験するもので、FW計画において集客の目玉的存在であった。しかしながら、技術的な難しさと、総事業費74億円という大型プロジェクトゆえに財政難の状況では、環境体験館の実現見通しが立っておらず、MOOの集客増加につながる新たな期待を持てなかった。
 1997年1月、釧路河畔開発公社の臨時取締役会において、衆議院議員へ転出した鰐淵前釧路市長の同公社代表取締役退任と、綿貫釧路市長の代表取締役への就任が議決された。後任社長が釧路市長に決まったことは、従来通りに釧路市が同公社の経営に責任を持つことを内外に示した。釧路市からの支援も依然として行われ、こうした支援の恩恵によって同公社の経営は黒字を維持しているものの、1996年度末に累積赤字は依然として12億円も残っており、再建計画で目標にされた2011年度の累積赤字解消は難しい状況になっていた。一方で、テナントの売上高は前年度と変わらなかったものの、釧路港岸壁で夜空の下営業している炉端焼きや朝市といった集客効果で、前年度200万人を割ったMOOへの入り込みは増加して204万人へ回復した。累積赤字の解消計画の達成が困難になり、綿貫釧路市長は1994年に立案した釧路河畔開発公社の経営再建策を見直しすることにした。まず、1998年度の環境体験館の開業によってMOOの集客増加を見込み、売上高も増加するという再建の前提が、環境体験館の建設見通しが立たないことから、売上増加をもたらす他の戦略を考えなくてはならなくなった。また、開業から8年が経過し、集客と建物の維持の観点から店舗の改装や建物全体の補修が必要となり、その費用を捻出する必要があった。1997年8月に、釧路河畔開発公社と釧路市が北海道東北開発公庫、北海道拓殖銀行、北陸銀行、北海道銀行、富士銀行、釧路信用金庫の6金融機関に働きかけて、同公社が融資を受けている43億6,000万円の貸し出し金利を3%から2.15%へ引き下げてもらった。債務超過の企業に対しては、異例の好条件であり、これも地方自治体が最終的な経営責任を負うという暗黙の了解がなされているからであろう。金融機関の支援によって、同公社の支払い利息は3,200万円以上減少する。テナントからの収入が低迷する一方、建物の補修などの経費が嵩むので、金利支払いなどを圧縮することで黒字を維持するのである。しかしながら、北海道拓殖銀行が経営破綻し、貸出金利の軽減による経営再建スキームに暗雲をもたらした。北海道拓殖銀行の債権は営業譲渡先の北洋銀行にすべて引き継がれるわけではなく、不良債権やリスクの高い債権は整理回収銀行が引き継ぐことになる。もし、釧路河畔開発公社の債権が整理回収銀行へ引き継がれたら、新たな借り入れは困難になり、他の金融機関が融資の回収に入るかもしれない。そうなれば、同公社の経営は行き詰まり、釧路市は出資金の4億円と債務保証分の5億円を損失にして同公社を倒産させるか、釧路市がいっそうの資金援助をして存続させるかである。そこで、釧路市は北海道拓殖銀行に与えていた市の指定金融機関の座を北洋銀行へ指定替えすることで、北洋銀行に対して同公社の9億円に上る債権の継承をプッシュした。北洋銀行は北海道拓殖銀行が保有していた釧路河畔開発公社の株式1,500株も引き継ぎ、有力株主として同公社と関わっていくことになった。
 支払い金利の低減を図る一方、綿貫社長はMOOが運輸省の民活法適用施設として建設された経緯から、建物の改装・補修費用自体の支援を運輸省に求め、陳情していた。全国の赤字に悩む第三セクターからも同様の要望があり、政府は1999年に民活法適用施設の改修に関して無利子融資を行う制度を制定した。将来的に行われるであろうMOOの建物の改装や改修は、この融資制度を利用することになり、改修費用を苦しい財務状況から捻出する必要がなくなった。1998年6月、MOOの建設段階から経営に関与してきた西武百貨店が運営していた最後のテナントである外商部と雑貨店が撤退した。それに伴い、西武百貨店は釧路河畔開発公社への出資を除いて、全面的にFW計画から手を引いた。西武百貨店の撤退した後の空き店舗は、従来から営業をして人気のある百円ショップの店舗拡大に当てられた。こうしたテナントの入れ替わりは、MOOの集客力によい影響を与えると思われた。さらに観光客の集客のために、大手旅行代理店と提携して釧路の観光ツアーに組み込んでもらい、買い物客へは買い物金額に応じてプレゼントを、旅行代理店にはツアー客の購買金額に対して6%のインセンティブを与えるシステムを導入した。買い物客へのプレゼントの費用は釧路河畔開発公社が、旅行会社へのインセンティブの費用はMOOの各テナントが負担することになっている。こうしたシステムの導入と共に、MOO開業以来初めて旅行代理店向けに宣伝パンフレットを作成し、ツアー客誘致に本腰を入れ始めた。こうした経営努力にも関わらず、景気の低迷から1998年度のMOOの入場者数は開業以来最低の178万4,000人まで落ち込み、MOO各テナントの総売上高は、17億6,100万円と、低下傾向に歯止めがかけられなかった。そのため、釧路河畔開発公社の売上高も9億円、人件費や金利支払いの低減の恩恵で経常利益は1億4,000万円と、前期と比較して減収増益となった。1999年度は開業10周年記念事業や観光ツアー客の増加もあってMOOへの入場者数は増加したものの、入場者の平均購買単価の低下によりテナントの総売上高は依然として低下傾向にあった。一方、釧路河畔開発公社の売上高は前年から微増の9億800万円だが、経常利益は2,400万円、今年度から発生する法人税支払いの後の純利益は634万円、累積赤字は9億2,500万円と依然として債務超過の状態である。前期比で8割以上の減益となった経常利益は、単年度黒字化した94年度から5年経過し、欠損金額の繰り越し控除が認められなくなったため、減価償却費1億8,100万円を計上して税金支払いを圧縮した結果である。黒字経営を維持すれば、税金の支払いが発生し内部留保できる利益が圧縮され、累積赤字の減少も鈍化せざるを得ない。そのため、釧路河畔開発公社はいっそうの経営努力を求められるようになる。

2.考察

@ 経営の分析
 「二兎追うものは一兎も得ず」という諺があるが、第三セクターの商業施設に関して公共性の強い目標と収益性の二兎追うのは非常に厳しい、というのがこれまでの事例研究から得たいつわざる感想である。釧路河畔開発公社もその例外とはなりえず、釧路市のウォーターフロント開発による地域経済の振興と、複合型商業施設の採算性は両立できていない。ウォーターフロント開発構想から出発しているため、立地は採算性とはあまり関係なく限定されてしまっていた。施設に関しても、当初は既存の倉庫を使用するあまり金のかからない再開発であったのが、民活法適用事業として低コストの資金調達が可能になると、採算性を強く意識せずに施設を大きく、豪華にしてしまっている。そこには収益性の高い施設を建設するというよりも、むしろ釧路を代表する観光商業施設を作るという意識が強かったのではないかと思われる。釧路市役所、釧路河畔開発公社、地元経済界の人々の話をうかがうと、MOOは釧路を代表する施設と自慢げに語ってくれた。しかしながら、施設が豪華に、大型化すれば、投資が大きくなり、高コスト経営になりがちだ。加えて民活法を利用した資金調達をするため、施設の総床面積における非営利施設部分を一定以上確保しなくてはならない。そのため、収益性を高めるためには、緻密な経営計画と経営努力が必要とされる。釧路河畔開発公社は観光商業施設を開発するパートナーを求めたが、なかなか色好い返事が得られなかったのは、プロの目から見て同公社の経営計画では採算的に厳しいと考えたからであろう。釧路河畔開発公社の誘いに応じたのは、都市型の商業施設を経営するノウハウを持つ西武百貨店グループであった。西武百貨店グループは堤オーナーの経営理念である生活総合産業としての商業経営を実践し、1980年代に高付加価値戦略で、拡張戦略を取っていた。現在の西武百貨店グループはこうした経営戦略の結果生じた負債の処理に追われているものの、FW計画に参加を決めた当時は一つの小売業の生き方として脚光を浴びていた。高コストを集客力と高い付加価値で補う必要があった観光商業施設の開発と経営にとって、釧路河畔開発公社にとって西武百貨店グループは絶好のパートナーと写ったかもしれない。西武百貨店グループがパートナーとしてFW計画の観光商業施設へ参加することで、MOOのコンセプトが都会的になりすぎて釧路市民や観光客のニーズとマッチしなかったという批判もあるようだが、そのあたりは直接当時調査したわけではなくわからない。しかしながら、西武百貨店グループから、釧路河畔開発公社へ出向して事業開発と運営に携わった人たちの人件費は、高給取りが多かったため同公社にとって負担になったようである。MOOの経営再建を行わなくてはならない時期に、西武百貨店グループも経営再建を迫られており、MOOに対して不十分な支援しかできなかったのも運がなかったといえる。また、MOOのターゲット顧客が観光客と地元市民という二兎を追ったことも、特徴あるテナント構成が行えなかった制約になっていたと考えられる。道東の観光は夏がメインであり、冬場の入り込みは少なくなる。そのため、夏は観光客を中心に、冬場は地元市民をターゲットにしなくてはならなかったのである。このようにMOOの経営に関しては、ネガティブな要素が多かったと考えられる。
 バブル景気が崩壊して以降、日本の小売業者の多くは経営低迷に悩んでいるが、釧路河畔開発公社の経営問題は経済動向云々以前のレベルかもしれない。開業の翌年度から1993年度までは売上げの5割近い経常赤字を記録している。損益計算書を入手できなかったため、分析はできないが、低利や無利子の公的融資を受け、民間金融機関からの資金調達比較して金利負担は軽いはずである。巨額の赤字の原因は、減価償却と一般管理費の負担が重く、それに対してテナントの売上高が少なく、その結果、テナントからの賃貸収入がそれらの費用をカバーできなかったのではないかと推測できる。減価償却に関しては施設が大きく複雑な設計であったため総工費が高いにもかかわらず、商業施設部分が3割程度に押さえられていたため、施設への投下資本に対する利益が少なく効率が悪かったと考えられる。次にMOOの入場者数と入場者の平均購買単価が事前の計画と大きな乖離があったようである。この乖離はMOOの集客力とテナントの商品揃えの誤算から生じたと考えられる。MOOの入場者数は開業3年目をピークに低下傾向である。MOOは観光客と地元客の両方をターゲットにしていた。釧路の観光入り込みとMOOの入場者数との相関性は低いので、釧路に立ち寄った観光客がMOOへ入場する割合が減少した、地元客の入場した、という2つの要素がMOOの入場者数に影響を与えていたと考えられる。観光客と地元客では品揃えに対するニーズが異なるが、顧客ターゲットを両者に設定して二兎を追ったたため、MOOの店舗コンセプトが曖昧になってしまい、入場者にとって魅力が薄いものになってしまった可能性を否定できない。例えば、1階にある半分程度のテナントは海産物を中心とした北海道の特産物を扱っているが、それらは観光客向けの高価格のものが多く、地元客は釧路駅前の和商市場などで購入することが多いようだ。一方、観光客にしてもお土産に1万円も2万円もするような商品をたくさん買えるわけではなく、1,000円程度のお土産が中心になる。そして、入場者の平均購買単価の減少は、景気低迷による消費意欲の減退、テナント構成の問題、各テナントの商品構成の問題が考えられるが、小売業が価格破壊の影響などで全般的に購買単価を落としていた時期で必ずしもMOOに限った現象ではない。ただ、MOOの高コスト構造と施設の商業利用部分の面積が少ないことを考えれば、高いプレミアムを獲得できる商品の品揃えを中心とした店舗構成や品揃えに焦点を絞ったほうが良かったかもしれない。また、その方が西武百貨店グループのノウハウを活かしやすかったかもしれない。
A 第三セクター経営に関するインプリケーション
 FW計画の出発点になったのは「観光漁港ショッピングセンター」で、釧路漁港にある倉庫などを利用し民間の物販店やレストランがそこに出店する。それを目当てに観光客と地元客が集まって賑わいをもたらし、釧路のウォーターフロント振興につながるというもので、非常にシンプルなものであったと思われる。いわば現在小樽の運河沿いにおける観光商業施設の集積を想像すれば分かりやすいかもしれない。そこでの行政の役割は、民間企業や自営業者が漁港地域へ自発的に出店できるように、道路、街頭、駐車場、公共の交通機関といったインフラ整備と、民間がこの地域へ進出しやすくするようなインセンティブを与えることになると考えられる。行政が自ら営利的な観光商業施設を作ることではく、もし、施設を作るならば、美術館のような地域の資産になるような非営利的施設であろう。釧路市のような人口20万人程度の都市ならば、民間の産業もある程度力があり、こうしたスキームで地域の再開発は行えたであろう。しかしながら、釧路市および釧路市の経済界は、行政が主役になった再開発を選択した。こうした選択を行った最大の理由は、民活法による中央からの経済的援助期待と、広域地域活性化といった大型プロジェクトへの格上げによる経済効果への期待だったのではないかと考える。民活法適用事業にするためには、公共的目的を含んだ事業内容と、第三セクターが事業主体となる必要がある。そのため、地方自治体が計画の主役にならざるを得なくなるのだ。公共的目的を打ち出せば、採算性の追求は厳しくなる。主役の地方自治体は元来採算性に関する意識は薄いし、採算性向上のノウハウを持たない。加えて中央から低コストで大きな資金を調達できるとなれば、事業収益の計画は甘くなっても不思議ではない。また、せっかく民活法適用事業になって中央から低コスト資金を調達できるならば、事業計画を拡大し、釧路の広域活性化につなげて経済効果を増やそうという発想も生じてくるであろう。そこから恩恵を受ける地元経済界、その支援を受ける政治家は、中央からの低コスト資金の調達によって事業計画の拡大に関して強く動機付けられるに違いない。当初、きわめてシンプルな発想からスタートしたFW構想は、いつのまにか地域の一大プロジェクトに膨らんでしまった。そうした一大プロジェクトの中核になり、象徴的存在になるのが観光商業施設のMOOならば、多少無理な収益計画であっても大型施設を建設し、MOOの事業費自体も膨らんでもおかしくはない。そこにはFW計画が進行するにつれて、地域活性化による集客も増加し、無理な利益計画も可能になる、という希望的観測を多く含んだ事業計画になってはいなかったか。
 第三セクターの経営の問題でよく目にするのが、民間事業の経営ノウハウを持たない地方自治体が中心になって事業を展開することであるが、MOOに関しては西武百貨店グループという小売業の大手が経営に参加し、経営ノウハウを提供していた。それはどうしてなのか。まず、西武百貨店グループの経営業績を考える必要がある。西武百貨店グループは良品計画やファミリーマートといった優良小売業を育ててきたが、一方で西洋環境開発に代表されるように、多くの経営失敗をし、現在では西武百貨店グループの危機が噂されている惨状である。前述したように、MOOの開発と経営に協力してきた西武百貨店グループの経営ノウハウに誤りがあったのではないかという疑問がある。西武百貨店グループはFW構想という巨大プロジェクトが振興するにつれて、MOOの経営戦略でも利益があがるという目算があったのかもしれないが、結果的にFW計画は第二次計画が部分的にしか完了していない状況で、西武百貨店グループの立案したMOOの経営戦略の前提が一部狂ってしまったといえる。組織間関係というコントロールのしにくい外部組織との協働は、外部組織の行動が不確実性の源泉になり、それが協働における弊害になることが多い。西武百貨店グループも釧路市という地方自治体の立案したFW計画を信じすぎたきらいがあるのではないか。少なくとも、いくつかの代替案、特に最悪の状況を想定した経営戦略を考えておくべきだったのではないかと考える。こうした組織間関係から生じた問題は、MOOの経営において他にも見られる。
 MOOを経営する釧路河畔開発公社は開業以来赤字を重ね、累積赤字が開業から5年間で15億円を超えてしまった。資本金4億円の企業が累積赤字15億円で、借入金が40億円を超えるような状態であれば、当然倒産してもおかしくはない。しかしながら、MOOは民活法適用事業の第1号というメンツ、釧路市の進めるFW計画の中核施設で釧路の代表的な観光施設になっている、という状況から開業5年で倒産はさせられない事情があったのであろう。運輸省の民活法適用事業がたった5年で破綻すれば、安易に認定して補助金を支出した運輸省の責任や、民活法を制定した政府の責任まで及ぶ可能性がある。その中核施設が倒産すれば、FW計画を推進してきた釧路市の責任と、今後の釧路地域の産業振興に明らかにマイナスになる。また、MOOを経営する釧路河畔開発公社単体では赤字であるが、地域経済に対する直接的および経済的経済波及効果が認められている。すなわち、釧路河畔開発公社という価値連鎖に関して、インプットされた価値とアウトプットされた価値の関係は前者のほうが超過しているが、釧路河畔開発公社を中心とした釧路地域の他の民間企業、地方自治体などが連結された価値システムネットワークで分析した場合、インプットされた価値とアウトプットされた価値は前者が必ずしも超過しているわけではないのである。それは、北海道東北開発公庫や日銀釧路支店の分析によって証明されている。しかしながら、価値システムネットワークにおけるインプットとアウトプットの因果関係を性格に分析できないことと、そして価値システムネットワーク全体のアウトプットへ目を向けるあまり、価値連鎖単体の非効率性から目を背けることになってしまう問題がある。釧路市の経済的支援によって釧路河畔開発公社単体の経営業績を改善したが、同公社の赤字を価値システムネットワークの他の組織、釧路市へ移転したに過ぎない。その結果、釧路河畔開発公社の価値産出の非効率性が温存されている懸念がある。
 MOOを経営する釧路河畔開発公社もやはり第三セクター経営の失敗に見られる典型的な問題点、計画のバブル化と甘い採算計画、官と民の組織間関係のもたらすコンフリクト、意思決定の遅さ、相手組織への依存から生じる責任回避と自律性の制約などが見られた。郊外型大型商業施設が民間企業によって作られている中で、こうした観光商業施設をあえて民活法の枠組みでやる必要があるのかという疑問もある。この事例と対照的なのは、小樽市の観光振興政策である。小樽市の場合、地域のインフラは別として小樽運河、石原裕次郎記念館、小樽マイカルといった新しい観光商業施設は、民間企業が中心に投資をして盛りたててきた。民間投資を呼び込めない過疎地域ならいざ知らず、人口20万人の釧路市ならば民間中心の開発と経営が可能ではなかったのか。札幌のような大きな商圏を近郊に持つ小樽のような大きな開発プロジェクトは無理にせよ、小さな事業規模で地域振興が可能ではなかったかと考える。(1998年7月調査)