会社設立から事業計画中止までの経緯 1989年
4月 JR名寄線および紋別駅廃止 1989年12月 紋別市オホーツクニューシティ基本計画策定推進協議会発足 1990年 5月 旧紋別駅跡地にショッピングセンター建設の基本計画策定 1991年 5月 SC建設のための第三セクター、紋別ニューシティ開発公社設立 1991年 9月 大規模小売店舗法3条事前結審 1992年 8月 衣料品核テナント「西條百貨店」が出店辞退 1993年 6月 食料品核テナント「しめまる」が出店辞退 1996年12月 ラルズへ正式に出店要請をしたが地元商業者から反対続出 1998年12月 旧紋別駅跡地のショッピングセンター計画を中止 1999年 5月 同社の債務を紋別市の補助金で処理することが議会で決定
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会社設立の背景
日本国有鉄道の分割民営化され、北海道では北海道旅客鉄道株式会社(以下JR北海道)が発足した。その結果、採算性を重視するJR北海道は、紋別市を通る不採算路線の名寄本線を1989年4月に廃止しする決定を行う。紋別市は有力な交通手段を失うと共に、駅を中心に広がった市街地が変化することになった。紋別市の中心的商業地である商店街はJR紋別駅と300m離れて4ヶ所にあり、鉄道廃止による紋別駅閉鎖は人の流れを変え、それらの商店街にも大きな影響を与えることになるであろう。また、国道238号紋別バイパスの開通により、ロードサイド型の大型量販店の進出が予想された。JR紋別駅から500m程度離れた住宅地にニチイ(マイカル)系列のスーパーマーケット「ホクホー」が既に出店しており、買い物客は4つの商店街からホクホーへ流れ、紋別市の小売店年間販売額の3割弱を占めるまでになっていた。そして、JR紋別駅の廃駅は市民の商店街離れをいっそう加速化することは容易に予想できるものである。 こうした事態に危機感を持った紋別市の食品スーパー「しめまる」の斎藤社長は、1988年頃からNTT株売却益を原資とする、第三セクターによる民活法特定施設向けの政府の無利子融資を使って、商店街の再開発を考え始めた。1989年末に、紋別市と地元商業者は、JR紋別駅廃駅によって生じる市の中心部の空洞化を防ぎ、4ヵ所の商店街の振興を図るため、「紋別市オホーツクニューシティ基本計画」の策定に着手し、紋別市と紋別商工会議所が「計画策定推進協議会」を発足させ、紋別駅跡地再開発計画を検討し始めた。そして、1990年に基本計画が策定され、紋別市と紋別商工会議所は「街づくり会社設立準備室」を設置し、関係機関と調整連絡を取った後に「地域商業集積促進事業実施計画書」を北海道に提出した。1991年に入り紋別市と地元商業者とが第三セクターを設立し、紋別駅跡地にショッピングセンターを建設することに決定した。この時の計画では、ショッピングセンターは敷地面積14,000平方メートル、店舗面積8,700平方メートル、商業施設以外に室内緑地公園、フィットネスクラブ、600台収容の駐車場を完備し、建設費41億円という大掛かりなものであった。計画された40テナントの内訳は、地元の食料品スーパー「しめまる」と名寄の百貨店「西條」を核テナントに、ファストフード店、宝石店を誘致し、残り28店のテナントは地元商店の出店となっていた。ショッピングセンターはバスターミナルと空中歩道で結び、将来的には隣接地に産業振興センターやホテルを建設しようとする、大掛かりな地域再開発であった。同年5月に旧紋別駅跡地にショッピングセンターを建設、管理する「株式会社 紋別ニューシティ開発公社」を、紋別市が2000万円(出資比率40%)を、地元のテナント予定者と商業関係有力者8人の個人株主(出資比率43.8%)、北海道銀行と紋別信用金庫が各250万円(出資比率5%)、紋別商工会議所、駅前中央商店街振興会、昭和街商店街振興会は各1株(出資比率0.1%)となっている。商業関係の有力者は紋別商工会議所のメンバーである。非常勤ながら代表取締役社長は金田紋別市長が、代表取締役専務には宮崎紋別市助役が就任した。同時にショッピングセンター建設のために、大規模小売店舗法に基づいて事業開始手続きを通産大臣へ提出し、説明会や診断が実施された。9月には大規模小売店舗法3条が事前結審し、商業集積法の適用地として通産省から指定を受け、民活法や中小小売商業振興法を利用することで、事業費全体の7割を無利子または低利の融資制度により資金調達できる見通しになった。また、紋別市は旧紋別駅跡地のショッピングセンターと4つの商店街を結びつける構想作成のための補助金を、通産省と建設省から受けることになった。1992年度中に再開発の基本構想をまとめ、93年度初めにショッピングセンター建設に着工する計画であった。
A
ショッピングセンター建設への紆余曲折
1992年8月、ショッピングセンターの核テナントとして出店予定していた西條百貨店が出店を正式に辞退したため、紋別ニューシティ開発公社は代わりの出店希望者を探さざるを得ない事態となっていた。西條百貨店はショッピングセンターの売り場面積のうち15%を使用して、衣料品を中心に販売を行うことになっていたが、前年より出店辞退をしていたのを、紋別ニューシティ開発公社が慰留していた。出店辞退の理由として、ショッピングセンターと西條百貨店のコンセプトや営業戦略に関する認識のずれ、紋別地域の商業環境変化による西條百貨店の経営戦略の見直しなどである。前者の理由に関しては、西條百貨店が安定した売上の期待できる食料品を扱いたい意向があったものの、もう一つの核テナントである食品スーパーしめまるとの利害調整がまとまらなかった。調整役である紋別ニューシティ開発公社へ両社が取締役を選出していることもあり、こうした利害の対立を強力なリーダーシップによって効果的に解消できなかったところに根本的理由があるようだ。後者の理由に関しては、「ニチイ」(ホクホーから改称)の増床や、紋別市街地郊外のバイパス沿いに「石黒ホーマー」(現ホーマック)や紳士服の「はるやま」が出店したことなどで、西條百貨店がショッピングセンターに出店しても競争優位を構築困難で、採算性の見通しが立たなかったのではないかと想像される。いずれにせよ、核テナントの出店辞退によって、ショッピングセンター建設計画は大幅に狂うことになった。西條百貨店に代わる新たな核テナントとしての出店要請は、西條百貨店の正式な辞退表明を待って札幌に本社を置く「ラルズ」へ行われた。この要請に関して、ラルズ側は、検討期間が短いことと、衣料関係の市況が厳しいことから、出店できないという回答を行った。1993年2月の紋別ニューシティ開発公社の取締役会は、不足のテナントを地元業者優先で誘致していく決議を行った。計画通りならばこの年の12月にショッピングセンターはオープンする予定であったが、核テナントが決まらず、建設着工すらできなかった。 旧紋別駅跡地に建設されるショッピングセンターの建設費をまかなうために、紋別ニューシティ開発公社は無利子の国の商店街高度化融資を受けることを前提としていた。そのため、地元以外の企業の売り場面積は全床面積の3分の1に抑える制約があり、地元商業者を中心にテナント誘致を進めていたが、西條百貨店に代わる核テナントは地元商業者の中から現れなかった。事態が硬直化しショッピングセンター建設計画が遅れる間に、事業環境が変化したとして、1994年6月に食料品の核テナントであるしめまるも出店を辞退してしまった。しめまるの斎藤社長は、旧紋別駅跡地開発の旗振り役で、ショッピングセンターのテナント募集を行う紋別ニューシティ開発公社の取締役営業部長を兼ねていたが、出店辞退によって取締役も辞任した。核テナントの出店辞退を受けて、紋別ニューシティ開発公社は12月の取締役会において、核テナントを地元にこだわらず、誘致する方針に転換した。同社の最大株主で、旧紋別駅跡地開発計画を主導する紋別市は、1994年6月を核テナント誘致のタイムリミットとすることを同社に課し、早期の決着を図ろうとした。そこで、ラルズと札幌に本社を置く大手スーパー1社と出店要請に関する交渉を進めることにしたが、そこに新たな問題が生じた。1994年4月に商店街高度化融資制度が、資本金1000万円以上、従業員50名以上の企業は融資の対象外にする、というように改正された。そのため、交渉中の大手スーパーは融資の対象外となり、また、地元のテナント1社も対象外とされた。融資対象となる約6割の地元商業者の売り場面積部分に関する建設費は、商店街高度化融資を受け、対象外の残り4割に関する建設費は他の資金調達方法を探さなくてはならなくなった。また、もともとショッピングセンター建設が地元の商業者の活性化も目的としていたこともあり、地元商業者からは地元以外の商業者を誘致することに対して反発も起こった。 1994年7月に、ようやくショッピングセンターの核テナントとして「ラルズ」の出店が合意し、補助金を管理する北海道および中小事業団と協議に入った。ラルズは道央を中心に営業を展開していたが、新たな成長を遂げるために北見管内にも既に北見と網走に出店しており、物流に関して問題もなかった。ラルズの売り場建設に関しては、国の商店街高度化融資を受けられないため、ラルズが出店すればラルズと紋別ニューシティ開発公社が建設費を負担することになる。ショッピングセンターの建設費のうち、ラルズが約3億円を負担、商店街高度化融資による約10億円の資金調達を行い、紋別ニューシティ開発公社は残り約6億円を新たに資金調達しなくてはならなくなる。紋別ニューシティ開発公社はショッピングセンターを建設するために設立された企業であり、ショッピングセンターが開業する以前の段階では収入がなく、6億円は借り入れに頼るか、増資によらねばならない。また、建設費負担以外の家賃等の細かい条件も煮詰められていない状況で、ラルズの出店決定と建設着工にはまだ紆余曲折が予想された。 1994年12月、紋別ニューシティ開発公社は、商店街高度化融資を受けるためのショッピングセンター建設に関する実施計画書を再び北海道に提出した。計画書によれば、ショッピングセンターの建物は鉄筋平屋建てで、建物の面積は4,950平方メートル、売り場面積はテナント確保の問題と融資を受けるために適正化する必要から4,300平方メートルまで縮小されていた。入店予定のテナントは2,340平方メートルの売り場面積を予定するラルズを核として20店。建物内部には室内公園を設置、駐車場は屋上と平地合わせて450台を用意する。総事業費は約20億円で、ラルズ負担分を除く8割程度の事業費は商店街高度化融資を受けられると、紋別ニューシティ開発公社は見込んでいた。今回の実施計画書は紋別ニューシティ開発公社が中心となって、テナント確保や採算性の問題から総事業費40億円以上という最初の計画から大幅に縮小されていた。
B
計画の中止と新たな経営目標の探索
旧紋別駅跡地のショッピングセンター建設のために実施計画書を提出したことで、1995年4月には北海道から、5月には中小企業事業団から事前指導を受けて、1997年3月のオープンを目指していた。しかしながら、紋別ニューシティ開発公社がショッピングセンター開業のために同社の事情を優先させてラルズ誘致を決めたことや地元商業者への説明不足の結果、地元商業者から紋別ニューシティ開発公社と紋別市へ不満の声が強まる。7月には紋別市の食品業関連8団体から紋別市に対してショッピングセンター建設への質問状が出された。具体的な問題としては、ラルズの誘致と不充分な既存商店街活性化策であった。コスト優位にあるラルズが紋別へ進出すれば、同様な商品を扱う地元商業者にとっては脅威となりる。そして、本来の計画が地元商業の活性化であったため、外部者であるラルズ誘致に対しては反対が多かった。また、紋別市がショッピングセンターの建設とそこへの集客を重視したため、既存商店街の活性化がおざなりになっているように、既存の商店街の商業者が感じていたようだ。紋別ニューシティ開発公社と食品業関連8団体との話し合いでは、ラルズ出店に関しての議論は平行線をたどり、結論はでなかった。そして、11月には紋別ニューシティ開発公社のかっての取締役であった斎藤しめまる社長が部会長をする紋別商工会議所食品業部会に、ラルズ出店に対して反対の要請がでる。以後、紋別商工会議所の中で、ラルズの出店に対する反対意見が連鎖的に噴出していった。しかしながら、紋別商工会議所の中に、ショッピングセンターへ出店する商業者と出店しない商業者との間でも利害の相違から、ラルズ出店に関して意見の対立が見られた。地元商業者の元締めである紋別商工会議所は、会員や中小商業者の集まりである紋別市商店街振興組合連合会のラルズ出店反対からショッピングセンター建設着工へ決断ができず、建設着工を早急に行いたい紋別市および紋別ニューシティ開発公社との溝が深まっていく一方であった。 そんな状況を打開するために、1996年3月に紋別ニューシティ開発公社は、ラルズ出店店舗部分を別会社に所有させ、ラルズに賃貸する提案を紋別商工会議所側に行った。これは商店街高度化資金の導入の条件をクリアする方法であった。この方法によりラルズ出店部分を既存の商店街活性策と切り離す意図もあったようである。しかしながら、問題の抜本的解決になっていない案は地元商業者へ受け入れられるはずもなく、5月開催の紋別商工会議所議員総会でも賛同を得られなかった。6月の紋別ニューシティ開発公社の株主総会では紋別商工会議所の正副会頭を取締役に加え、地元商業者を重視する方針で事態解決を図ることが9月の取締役会で決議された。そこで、11月の取締役会でショッピングセンターの地元核テナント再募集が決議されるが、締め切りの12月になって応募はまったくない状況であった。この応募結果を受けて、紋別ニューシティ開発公社は核テナントとしてラルズの出店を取締役会で正式に決議した。紋別商工会議所においてもラルズ出店要請の決議がなされ、紋別ニューシティ開発公社は北海道通産局、北海道、ラルズと協議に入る。ラルズ出店部分を経営するための別会社設立案を、1997年6月に北海道と中小事業団に提出する。ラルズの出店を正式に要請した後も、反対する商業者が多く、金田紋別市長、紋別商工会議所3役、紋別ニューシティ開発公社役員、テナント予定者、地元の商業連合会の間で話し合いがもたれ、合意への努力がなされていたが、ショッピングセンター建設着工へはこぎつけられなかった。 旧紋別駅跡地にショッピングセンターを建設する計画は、政治問題化した。5期市長を務め、紋別ニューシティ開発公社社長を兼ねる金田市長が市長選挙不出馬を決め、1997年6月に行われた紋別市長選挙でショッピングセンター計画の見直しを公約に掲げていた赤井邦男氏が市長に当選した。金田市長は市長退任のため、6月末に紋別市ニューシティ開発公社の代表取締役も辞任した。そして、1998年2月の紋別ニューシティ開発公社の臨時株主総会で赤井市長が取締役に選出され、同日の取締役会で紋別ニューシティ開発公社代表取締役社長に就任したことから、ショッピングセンター建設計画は新たな展開をしていく。6月の紋別ニューシティ開発公社の株主総会で、赤井市長の要請を受けて同社の代表権を持つ取締役に、紋別商工会議所の副会頭が就任することになった。これにより商工会議所はショッピングセンター計画に対して、より大きな責任を負うことになった。 紋別ニューシティ開発公社はテナント出店予定者に対して経過を報告し、不足している業種に関する地元テナントを再募集したが、予定を下回って地元テナントは13店しか集まらなかった。その結果、ラルズの売り場面積が全体の4分の3以上を占めることになってしまい、商店街高度化融資を受ける条件をクリアできず、地元商業の活性化という大義名分も崩れてしまった。ラルズの店舗建設分に対する資金調達も困難で、ショッピングセンター開業にあたっての不足業種を地元テナントから確保できる見込みもなかった。また、ショッピングセンター建設・運営のために設立された紋別ニューシティ開発公社自体もショッピングセンターが完成されておらずさしたる収入がなく、一方で人件費、経営コンサルタント委託費用、物件費、事務所維持管理費などが発生していたため、約3,790万円の債務超過になっていた。そこで、1998年10月、赤井紋別市長は、ショッピングセンター建設計画を断念することを取締役会で表明した。しかしながら、ショッピングセンター建設計画断念は、一部の会員の反対にもかかわらず建設を推進し、紋別ニューシティ開発公社へ代表権を持った役員を出している紋別商工会議所にとっては容認できるものではなかった。紋別ニューシティ開発公社の取締役会では、赤井紋別市長以外の取締役全員が計画の推進を求めていた。赤井市長と他の取締役との間で数度の話し合いが行われ、赤井市長の意思が固く、また、大規模店舗小売法が2000年6月に失効し、同法に基づくショッピングセンター計画は時間的に困難であるため、1998年12月の同社取締役会においてショッピングセンター計画の断念は正式に取締役会で決議された。そして、今後は街づくり3法と呼ばれる大規模小売店舗立地法、中心市街地活性化法、改正都市計画法にのっとった既存商店街の新たな活性化計画の策定も決議された。こうした取締役会での決議により、ショッピングセンターの事業開始手続きの廃止届を、北海道を経由して通産省へ提出した。年末から新年始めにかけて、紋別ニューシティ開発公社は、株主、テナント出店予定者に経過とショッピングセンター建設断念を正式に伝え、理解を求めた。 ショッピングセンター建設が断念された後の紋別ニューシティ開発公社は、街づくり3法による新たな活性化計画を策定し、実行するためのタウンマネジメント機関(Town
Management
Organization)として存続をはかろうとした。一方で、3,789万円の債務は紋別ニューシティ開発公社だけでは返済できないため、紋別市は補助金でこの債務で処理することにし、1996年5月の紋別市臨時市議会において補正予算から支出することで決定した。その過程で、紋別ニューシティ開発公社の無責任体質や経営責任を問う意見があがり、紋別市は今後の同社の負債に関しては一切の補助金支出を行わないと確約した。紋別ニューシティ開発公社は会社設立から9年目にして、事業内容は街づくり3法を活用した商店街活性の基本計画に基づき展開される事業の管理と運営を行うことに転換した。
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なぜ、第三セクターなのか?
第三セクター設立の目的の実行を急ぐあまりに、収益計画が甘かったり、強引に事業を開始して負債を膨らませる事例に比較して、旧紋別駅跡のショッピングセンター建設が計画段階で経営が行き詰まったので、損失が少なくて済んだのは救いである。とはいえ、紋別市が紋別ニューシティ開発公社へ出資した2,000万円と同社の負債処理に使われた3,789万円は、何も地域に残さなかった。直接的経済損失以外に、旧紋別駅跡再開発が行われなかったことで、地域振興が滞った地域全体の機会損失を考慮しなくてはならない。なぜ、紋別ニューシティ開発公社が推進した旧紋別駅跡地再開発が破綻したのかを検証したい。 まず、旧紋別駅跡地再開発は、紋別市中心部にある商店街の活性化を主目的としていた。紋別市中心部の商店街は中小商業者によって構成され、大型店の進出や人の流れといった環境変化にうまく適応できず、個々の商店およびその商店の属する商店街が顧客の支持を得られなくなっていたと見られる。こうした沈滞化しつつある商店街の活性化は、さまざまな地域で行われているものの、一般的に成功のためのハードルは高いといえよう。それは、まず、商店街が顧客の支持を失う、という市場メカニズムによって出された結果を覆すだけの多大な努力が必要だからである。そうした努力ができるような体制が旧紋別駅跡地再開発においてできていたのか疑問がある。そして、商店街の活性化は商店街自体だけでなく、商店街を構成する個々の商店の活性化と表裏一体であるからだ。沈滞化している商店街は古い歴史を持つところが多く、例外は存在するものの、街の発展で商店街が人の流れから外れてしまった、新しいライフスタイルに適応できていない商店街の構造になっている、商店街の商店主たちの年齢が高く旧態依然とした商売をしている、個々の商店の資本蓄積が乏しく新たな成長戦略を採用しにくい、などの地域経営から個々の商店の経営問題までを抱えている。こうした問題を解決するには、個々の商店の経営努力と商店間の協調、および、行政や地域住民といった地域からの支援が有効に結びつき、機能することで、商店街の活性化が達成されるのである。それらを結びつける媒介として第三セクターが適切な組織かどうかを考える必要がある。 第三セクターのシステムを利用するメリットは、官と民の異なった経営資源と組織能力を活用して、公共性の高い事業目的を遂行するものである。第三セクターは官と民のジョイント・ベンチャーであり、最終的なプロジェクトの目標において、ステーク・ホルダーの中で強力なリーダーシップを取る人物や組織がないと、この事例のように地域経済の振興と各商店の繁栄といったように微妙なずれが生じることが多い。その結果、第三セクターを中心とした価値システムが産出する価値の合意を見出せなかったり、合意のための調整が有効に機能しなかったりする。また、産出すべき価値が合意されたとしても、価値システムが産出する価値の恩恵を受けられない、外部組織から支援を受けられなかったり、反対がなされることもある。 第三セクターのシステムを採用しなくてはならなかった主な理由の一つは、1987年に成立した「日本電信電話株式会社の売却収入活用による社会資本整備の促進に関する特別措置法」によって生まれた日本開発銀行を介しても無利子融資を利用することが前提となってスタートしたからである。紋別市の財政状況では、市の単独事業としてショッピングセンター開発はリスクが大きすぎた。一方、地元商業者の規模でもこうした大規模プロジェクトを行う資金調達が困難であろう。そのため、政府の無利子か低利子融資で再開発による商業振興を目的とするならば、「民間事業者の能力活用による特定施設の整備に関する臨時措置法」(通称、民活法)に基づき、融資を受けられる第三セクターが高度商業基盤施設を建設することに決まってしまう。すなわち、第三セクターが開発主体にならなければ、プロジェクトの資金調達が不可能なのである。もちろん国民の財産を借用するのであるからいたし方がないかもしれないが、こうした資金調達方法から生じる制度的制約によって、プロジェクト遂行と運営に足かせが課せられてしまう。ショッピングセンター建設にあたって、国から無利子融資を得ようとすることで、ショッピングセンター建設プロジェクトが二転三転したことは否めない。 旧紋別駅跡地再開発で、第三セクター設立が前提となってしまったのは資金調達からすればいたしかたない。しかしながら、紋別ニューシティ開発公社の資本構成と役員構成は、今から考えれば多少問題があったかもしれない。筆頭株主の紋別市の同社における持ち株比率は4割。地方自治法243条によれば、地方自治体の出資比率が5割以上の第三セクターの場合に、当該の議会へ事業計画と決算書の提出が義務付けられている。紋別市は紋別市議会に対して紋別ニューシティ開発公社の事業計画や決算書の提出の義務を負わない。少なくとも金田紋別市長と宮崎紋別市助役を紋別ニューシティ開発公社の代表権のある取締役として兼任させるのであれば、出資比率を5割以上にして、同社に関する最終的な責任の所在が紋別市にあることを明確にし、議会へのアカウンダビリティーを高めても良かったと思われる。一方、民間側の出資は6割で、そのうち約44%を個人の大株主が占める。ショッピングセンター建設にあたって、商工会議所会員間で利害が一致しにくいので、紋別商工会議所が大株主として出資しなかったのは妥当といえる。しかしながら、民間側の出資者の中で資本の論理で明確にリーダーシップを取れる株主がいなかったのは、同社の経営にとって出資者間の調整上マイナスであったと思われる。筆頭株主の紋別市はあくまでも地域経済の活性化を目的としており、二人の代表取締役は同社の商行為に関して知識もなく、市政という公務が本業で同社の実務も行えない。そうなれば、民間の出資者が実務上のリーダーシップを取り、プロジェクトを遂行しなくてはならない。斎藤しめまる社長がその任を果たす役割をしていたと思われるが、出資比率は6%と株主としてリーダーシップを取るのに不充分で、資本構成の面で問題であったのではないか。また、斎藤氏もしめまるの社長との兼務で、紋別ニューシティ開発公社としめまるの利害が常に一致していれば問題はないものの、一度利害における葛藤が生じると紋別ニューシティ開発公社にとって不利な意思決定をせざるを得ないと思われる。 結論としては、第三セクター以外のプロジェクトの運営方式をもっと考えても良かったと考える。まず、紋別市が純粋な民間商業施設開発業者へショッピングセンター建設と運営を委託する、紋別市がショッピングセンターを建設して運営のみを民間企業に委託する、第三セクターにショッピングセンターの建設と運営を委託する、などのプロジェクト案を旧紋別駅跡地再開発目的との整合性、資金調達コストを含めた採算性、公共性への影響、競争優位構築の可能性から評価していくべきであった。特にショッピングセンターの経営は、立地や施設内容に対する建設コストのバランスといった建設自体もさることながら、開業後の施設管理や、テナント支援と管理による競争優位構築のノウハウが重要である。地元商業者の活性化ということばかりを強調して、この視点が抜けていると、赤字のつけを地域全体で払う羽目になる。そのためには、地元商業者の選別や競争力を持った他地域の商業者の誘致も必要になるかもしれない。そうした場合、ショッピングセンター経営に関して、運営する会社が強力なリーダーシップを取れる体制を作り、戦略的に経営を行えないプロジェクト案でまずい。そうした評価をして第三セクター方式の優位性がある時に、第三セクター方式を選択する必然性が出てこよう。
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なぜ、失敗に終わったのか?
資料「紋別ニューシティ開発公社貸借対照表」
1992年3月31日現在(単位:千円)
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資産の部 |
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負債の部 |
流動資産 |
28、136 |
流動負債 |
0 |
固定資産 |
0 |
固定負債 |
0 |
無形固定資産 |
75 |
負債合計 |
0 |
投資等 |
5 |
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資本の部 |
繰延資産 |
19、972 |
資本金 |
50、000 |
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当期損失 |
−1、812 |
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資本合計 |
48、188 |
資産合計 |
46、188 |
負債資本合計 |
48、188 |
1999年3月31日現在(単位:千円)
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資産の部 |
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負債の部 |
流動資産 |
56 |
流動負債 |
19、748 |
固定資産 |
0 |
固定負債 |
18、141 |
無形固定資産 |
75 |
負債合計 |
0 |
投資等 |
15 |
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資本の部 |
繰延資産 |
50、405 |
資本金 |
50,000 |
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欠損金 |
−37、338 |
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資本合計 |
12、662 |
資産合計 |
50、551 |
負債資本合計 |
50、551 |
旧紋別駅跡地再開発の計画と、それを実行する紋別ニューシティ開発公社自体が、計画を成功させるために十分でない体制でスタートし、それ以降の計画推進上で様々な障害になっていったようだ。最大の問題はショッピングセンターへ出店を予定するテナントの調整に関して、紋別ニューシティ開発公社が調整役として失敗したことである。衣料品の核テナントとして出店予定がされていた西條百貨店がショッピングセンターと条件面で折り合わず辞退の希望を出したのに対して、直接的な利害関係者である斎藤しめまる社長が紋別ニューシティ開発公社の取締役として説得にあたらねばならなかった。ラルズとの出店交渉に際しても、代表権を持つ金田紋別市長ではなくラルズ出店で影響を受けるスーパーしめまるの社長である斎藤氏があたることになった。斎藤氏としては、紋別ニューシティ開発公社と自社の利害が対立した場合、自社の利益を守ろうと行動しても非難はできない。そうした経営体制を取っていた紋別ニューシティ開発公社に問題がある。また、核テナントの選定の過程において、十分に情報公開をしなかったことは、公共性を重視する第三セクターにとって、地域社会からの同社への正当性に関する支持を失う結果になった。 核テナント問題でショッピングセンター建設計画の中心的人物であった斎藤しめまる社長や紋別ニューシティ開発公社の山口常務が、同社を辞任した後、筆頭株主である紋別市が不安定な同社の経営体制と計画推進力の低下に対して、強力なリーダーシップを取れる人材を送り込むべきであったが、紋別市から次長クラスの人材を兼務者として送り込むにとどまった。もし、ショッピングセンター建設を協力に推進するならば、あくまでも地元商業者の利益を第一義的に考えて地元商業者主導による計画の見直しを行うのか、外部から核テナントを誘致してでも当初の計画どおりショッピングセンターの早期建設による中心街の活性化を目指すのか、計画自体を中止するのか、利害関係者間で十分議論し、紋別ニューシティ開発公社の経営戦略を再考すべきであったと考える。そして、その再考された経営戦略をベースに実行していける外部の専門経営者や専門企業を招き入れて、彼らに権限を委譲し、計画を実行に移していくべきであったといえる。一方で、地元商業者も意見は出すものの、商業者間の意見の対立が調整できなかったためか、ショッピングセンター建設に関しては紋別市へ依存してしまった。そのため、紋別市および紋別ニューシティ開発公社は、経営戦略の見直しを十分せずに、既定の路線を進まざるを得なかった。 第三セクターの経営陣は、非常勤がほとんどで本業と兼務している、また、経営陣はショッピングセンター建設計画に対して利害を持つ組織から派遣されている性格も強い。そのため、経営陣同士の意見が分かれてしまい、迅速な意思決定と実行が困難であった。こうした経営体制の問題以外に、公的融資で資金調達しようとしたため、手続きや法律の改正によって、計画の進展が遅れたことはいなめない。計画の遅れは、収益性が求められるテナント出店予定者にとって、事業環境の不確実性と経営戦略の制約になり、建設主体である紋別ニューシティ開発公社への不信を高めていってしまった。こうしたショッピングセンター事業計画の遅れは、寄り合い所帯における強力なリーダーシップの欠如、法律や制度への依存から生じる負のコスト、ステークホルダー間の相互依存の構造化、そして、官僚組織の持つ負の組織文化などから生じた、第三セクターに見られる典型的な問題点と分析される。 最終的には5,000万円の資本金が費やされ、それだけでなく3,789万円の紋別市の公的資金が投入されてしまった。紋別ニューシティ開発公社が設立されてから8年間、計画は進展せず、9,000万円近い資金と8年間という時間を失ってしまった。当然、このプロジェクトは地域社会に対して何らの価値を産出せず、地域振興を自力で行えないという無力感を関係者は感じたのではないか。紋別ニューシティ開発公社はタウン・マネジメント機関として存続しているが、これまでと異なる経営方針と経営体制を構築していかなければ、同じような過ちを繰り返すかもしれない。(1999年9月調査)
(参考資料) 「紋別ニューシティ開発公社に対する財政支援について」紋別まちづくり推進室
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