File NO.001 帯広ステーションビル
1.沿革
単位百万円 売上高 費用 経常利益
1966年度 168 553 −385
1997年度 104 172 −68
 1995年度以前の業績は未入手    

1965年4月 第三セクター「帯広ステーションビル」設立
1966年11月 同社「帯広ステーションデパート」開店
1994年3月 赤字決算へ
1996年3月 「エスタ帯広」着工
1996年11月 「エスタ帯広」開業
1998年11月 「帯広ステーションビル」自己破産を申請

@ 帯広ステーションデパートの誕生
第三セクターである帯広ステーションビルは、帯広駅を民衆駅として活用するために、1965年4月に資本金2650万円で設立された。当時帯広駅を所有していた国鉄の方針により、駅構内の広い面積を1民間企業には貸せないということから、第三セクター方式で民活事業として行われることになった。出資は、帯広市が600万円(出資比率約23%)、鉄道弘済会などの国鉄関連4会社が41.9%、残り35%強を北海道拓殖銀行や地元企業が出資した。会社の具体的事業内容としては、帯広の顔として駅デパートを建設し、テナントを管理していくことだった。1966年11月、帯広ステーションデパートとして開業し、十勝地方初の駅デパートとして華々しいスタートを切った。デパートといっても、単一小売業者が運営するのではなく、複数の専門店テナントが集まって百貨店形態を取るものであった。デパートを開店する頃には増資が行われ、帯広市の出資比率は変わらないものの、出資金額は2000万円に増加していた。日本経済が高度成長期にあったという恩恵もあり、デパートのテナントは順調に売上を伸ばし、施設管理をする帯広ステーションビルの業績はほどなくして単年度黒字になったと推定される。こうした好業績を反映し、ホテルを併設する計画が生まれる。そのため、1969年と1972年に増資が行われ、資本金は2億2000万円となった。帯広市の出資比率は変わらないものの、1972年の増資で5200万円まで出資は拡大している。ホテルも開業し、デパート部門以上に利益が上がっていたようだ。
帯広ステーションビルにとって好ましい状況が変化し始めたのが、1990年、帯広駅南口前に立地する長崎屋の開業である。長崎屋は駐車場を持つ地下1階、地上3階の大型スーパーで、品揃えも豊富で、買い物しやすい店舗レイアウトを持っている。寄り合い所帯の帯広ステーションデパートは長崎屋に対して競争力を持たなかった。唯一、帯広駅に併設されているという立地上の優位点があったものの、帯広駅の利用者が減少していたため、駅デパートとゆえに駐車場を持たないことが、マイナスとなってしまっていた。自動車で買い物をする顧客向けに、帯広市郊外では大型量販店が続々とオープンし、買い物客の流れも帯広駅から郊外へ変化しつつあった。そうした状況の中、1992年に国鉄から変わったJR北海道が帯広市中心街を高架化する計画を打ち出した。鉄道が高架化されれば、駅も改築しなくてはならず、帯広ステーションデパートおよびホテルは移転しなくてはならなくなってしまう。ある意味では、帯広ステーションデパートが長崎屋や郊外の大型店に対して競争力を失っていたため、店舗をリニューアルするいいきっかけになったともいえよう。

A エスタ帯広の誕生と破綻
帯広ステーションビルは、帯広市中心街の根室本線高架化に伴う新しい商業施設の計画を立案しなくてなならなくなった。そこで、JR北海道の推薦する東京の経営コンサルタント会社に新しい商業施設の計画を委託した。この頃は、帯広ステーションビルの売上高の約6割を稼ぐホテル部門は順調であったが、デパート部門がテナントの撤退や管理コストの上昇などから採算性が悪化していたようだ。その結果、1994年3月期決算から単年度赤字に帯広ステーションビルは転落してしまった。1995年11月、駅商業施設移転に伴う補償金が総額14億5900万円に決定した。帯広市は駅前区画整理事業費の補償費として7億3000万円を同社に支払うことになり、残りはJR北海道からの補償金であった。これを機会に、帯広市は非常勤取締役に帯広市助役と収入役を就任させる。これは帯広市の顔を再生させるため、市が力を入れて駅の商業施設を新設する意志を示すことを目的としたものと考えられる。一方、東京のコンサルタント会社による駅の新しい商業施設の提案がなされた。それによると駅舎を挟んで東西の2施設に分け、西館を飲食関係にし、東館をヤングカジュアルファッション館とするものであった。特に東館は、銀座の高級店をイメージした帯広には今までなかったような店作りをする意欲的なものである。帯広ステーションビルのホテル部門は、JR北海道が一時計画していたことと、帯広駅近辺に大型ホテルが建設されたこともあり、新施設の開業を期に廃止されることになった。商業施設としての競争力を大いに左右するテナントの募集は、計画を立案したコンサルタント会社に任せることになった。1996年3月から新しい商業施設の工事が、総工費11億6000万円の予定で着工される。1996年3月期の決算は3年連続赤字決算になって、帯広ステーションビルにとっては新しい商業施設に最後の賭けを託すことになる。6月には帯広ステーションビルの株主総会において、同社の代表取締役社長であったスーパーのダイイチ社長で、帯広の商業界の実力者である川上直平氏が高齢を理由に退任し、後任に田本憲吾氏が新たな代表取締役社長に選任された。田本新社長は帯広市長を16年務めた有力者であり、田本氏を後継社長に選んだ理由の一つに、経営不振に陥っていた同社の再建に、田本氏の政治的影響力を期待したのではないかと推測する。
1996年11月、帯広ステーションビルの商業施設は、「エスタ帯広」として、総工費17億8000万円を費やし、開業にこぎつけた。「エスタ」の名称は、JR北海道の子会社が札幌駅、旭川駅、苫小牧駅で運営する商業施設と同じブランドであり、帯広では運営主体が第三セクターであったものの、JR駅構内のデパートであることとブランドの共有の観点から、「エスタ」を使用したようである。エスタの開業により第三セクターとしての公的使命が終わったと考え、帯広市内部では帯広ステーションビルから出資を引き揚げることを検討していたが、出資の引き揚げ時期は同社の経営が安定してからということになった。エスタ帯広の華々しいオープンの影には、いくつかの不安材料があった。一つはテナントが思うように集まらず、開業時でもエスタ全館がテナントで埋まっていなかった。また、開業時にテナントとして入店していた45の店は、保証金や敷金の無料化や値引き、賃借料の固定部分をなくすことによる引き下げ、テナント店舗内の内装工事の負担などの経済的誘因を与えてかなり強引に集められたので、当初の資金計画が大幅に狂ってしまった。以前からのテナントの既得権による入店や、無理をしてテナントを集めた結果、計画当初の高級感のあるデパートとしてのコンセプトからかけ離れた雑多な店の集合となってしまった。そして、工事費用の一部1億8000万円が、帯広ステーションビルのキャッシュフロー不足により工事業者へ未払いになっていたこともあとあとまで尾を引くことになる。リニューアルにより、エスタ帯広は以前の活気を取り戻したかに見えたが、新装開店の効果は年内しか持たなかった。
1997年3月期の帯広ステーションビルの決算は、実質的には5ヶ月の営業にもかかわらず、 テナントからの家賃収入を主とする売上高は1億6800万円と前年度比の20%強のマイナスにとどまった。しかしながら、商業施設建設に伴う金利負担や減価償却、テナントへの経済的インセンティブ供与の結果、経常損失は3億8500万円にのぼった。JR北海道に支払うべき構内使用料4600万円も支払えない状態であった。こうした状況は来年度にテナントへの経済的インセンティブ供与がなくなるにせよ、テナント売上が思うようにあがらず、テナント売上に比例する帯広ステーションビルへの賃貸収入が好転するとは思われなかった。各テナントの97年度の売上目標は、開業効果のなくなった後の集客の低迷を理由に21億円から17億円へ下方修正されているような状態だったのだ。景気の低迷と旧帯広駅舎解体工事、各テナントの魅力不足から集客が予想以下にとどまったようだ。テナント1店は早々と撤退を決定した。1997年6月、帯広ステーションビルは巨額の経常損失に伴う資金不足から帯広市へ支援要請をするが、同社の再建計画が明確にされず、出資の引き揚げすらも検討をしていた市側から支援を拒否された。同社の役員報酬および従業員の給与のカットが行われたものの、焼け石に水であった。1998年3月期の決算は、売上高は前年度比44%の減少の1億400万円、営業日数を考えれば、壊滅的な売上減少であった。経常損失は前年度の特殊要因がなくなり6800万円の赤字に抑えられたものの、売上高の減少は同社の経営破綻を容易に想像できるものであった。テナントの売上が減少しており、また、撤退するテナントも出てきていた。それに伴って同社の賃貸収入が大幅に減少したのだ。1998年5月に、田本帯広ステーションビル社長、坂本JR北海道社長、砂川帯広市長の3者会談がもたれ、田本社長から同社の支援が訴えられたが、不調に終わった。同年10月に、建設を請け負いながらも工事代金が支払われていなかった建設業者が、未払金に支払いを求め、帯広ステーションビルを相手に裁判を起こした。同社は深刻なキャッシュフロー不足に見舞われ、1998年11月、エスタ帯広を開業してから2年という短期間で自己破産申請をせざるを得なくなった。
JR北海道への構内使用料の未払い分9200万円や建設業者への未払い分1億8000万円を含めて負債総額4億2000万円であった。エスタ帯広のテナント36店は、帯広ステーションビルの自己破産申請後も、破産管財人の斎藤道俊弁護士の許可を得て営業を継続することになった。エスタ帯広を存続させるための支援要請が、斎藤弁護士から市やJR北海道へなされ、1999年2月、JR北海道は構内使用料の債権を放棄し、推定2億円でエスタの施設を買い取ることで決着した。この時点でテナントは26店までに減少していたが、新生エスタ帯広の経営を安定させるために、テナントの賃借料は従来の売上比例方式から固定方式に変更となった。調査時点(1999年10月)では、エスタ帯広は西館1階に飲食サービス店が6店、食品関連物販店が8店の計14店、東館1階に物販店とサービス業店が9店、東館2階に1事務所というような営業状況である。東館2階は閉鎖され、一般の客は入れないように閉鎖されている。平日の昼頃だったからかもしれないが、客はまばらで、空き店舗もかなりあり、近隣にある長崎屋と比較してかなり閑散としていた。 
2.考察
@ 経営破綻の理由
帯広ステーションビルの経営破綻の理由は、エスタ帯広の失敗にある。それでは、エスタ帯広は、なぜ2年間という短期間で帯広ステーションビルを自己破産に追い込むような失敗となったのであろうか。エスタ帯広の商業施設としての経営の観点からと、第三セクター企業としての帯広ステーションビル経営の観点から考察してみる。商業施設の開業に当たっては、立地選定は重要な戦略である。詳細な立地調査を行った結果として、立地は決定されるべきである。しかしながら、エスタ帯広の立地は帯広駅高架化に伴う移転開業ゆえに、隣接地に長崎屋が開業したこと、駅の利用者数が減少していたこと、イトーヨーカ堂の移転に見られるような郊外への買い物客の流れなど、ネガティブな要因があったにもかかわらず、商業施設の立地として競争優位性が低下していた新しい帯広駅構内が既定の事実となっていた。また、駅舎を中心にしなくてはならない駅の構造から、店舗レイアウトが制限を受けることになっていた。あまり適切でない立地が既定であった場合、新たな集客の戦略が求められる。東京の経営コンサルタント会社の立案した新装開業戦略は、競争に対するアプローチとしては適切であると考える。長崎屋や郊外の大型量販店へ対抗するためには、差別化をしなくてはならない。ヤングカジュアルを中心とした高級感のある店作りは十分差別化できるであろう。しかしながら、問題はバブル経済崩壊後の消費需要落ち込みの中で、果たして高級路線が十勝地域の顧客を獲得できるかどうかである。大都市圏における一部高級ブランドが堅調である事実はあるものの、帯広市を含めた十勝地域で十分な売上を獲得できるだけの高級なヤングカジュアル市場が存在したかどうかである。出店コストを下げてテナントを募集しても、当初計画していたような高級志向の小売店がテナントとして入らなかったことを見ると、立地上の競争優位性の問題を含めて採算が取れないと小売店側が判断したのかもしれない。出店コストのディスカウントは、当初計画していたエスタ帯広のキャッシュフロー計画を大きく狂わし、それが自己破産をもたらす引き金になってしまった。当初のキャッシュフロー計画が大幅に狂ってしまった場合、計画自体を止めたり、修正しなくてはならない。しかしながら、JR北海道の帯広駅新装オープンと合わせるために、経済的に妥協してでもエスタ帯広を開店しなくてはならなかったのも帯広ステーションビルにとって響いたようだ。以上のように考えていくと、エスタ帯広は、開業した時点で既に成功を期待できない商業施設だったのではないかと疑いたくなる。そうした開業を実行してしまった帯広ステーションビルには、第三セクターの経営に関する独特の問題が隠されていると考える。
第三セクターの経営計画は往々にして甘いものが多い。それは地方自治体がバックについていることで、信用力が増し、資金調達力が過剰に高まるのだ。容易に資金調達が可能となるため、その結果として必要以上に計画が膨れ上がってしまうことがある。また、事業計画に参加する企業が、最終的には地方自治体がなんとかしてくれるという過剰の依存意識と安心感を持ち、多少計画が甘くても実行してしまうこともあるようだ。帯広ステーションビルの場合、本来は移転補償金で商業施設の建設と当座の運転資金を賄える程度の計画に抑えておくべきだったのではないかと考える。また、第三セクターは儲かる事業を行うという目的で経営できない。そのため、この事例においても、たとえ競争優位性に不安のある開業計画でも、帯広駅の活性化という目的が優先され、純粋に採算性だけで意思決定が行えないという問題を抱えることになった。そのような場合、第三セクター単体での価値産出とそれにかかる費用で採算性を考えるのではなく、地域社会を一つの価値システムとして捉え、その中で採算性を取るという視点で評価していくことが必要となる。帯広ステーションビルは、そうした視点での評価でも、費用以上の価値を産出するのが困難であったのではないかと考えられる。
帯広ステーションビルはエスタ帯広開業の直前に社長が田本前帯広市長へ交代したが、小売業経営の経験の無い田本氏にとって、厳しい環境下に置かれたエスタ帯広の経営を安定させるだけの経営能力があったかどうか疑問である。また、社長として組織を把握し、適切な戦略を打ち出すのには時間が必要であるが、そうした時間的余裕がないままに、エスタ帯広の経営が悪化し、有効な再建が打ち出せなかったのではないかと考える。帯広ステーションビルが経営悪化の問題を解決する当時者能力を失ったときに、決定的なリーダーシップを発揮できる株主が不在という、出資構成自体も問題を含んでいたように思われる。帯広ステーションビルの筆頭株主は帯広市であるが、それでも23%程度の出資比率である。そのため、市が大きな影響力を帯広ステーションビルへ与えられても、株式の過半数を抑えていないため、経営権を支配することができない。その裏返しとして、同社からの経営支援に対して最終的な経営責任を取らず、実際に支援を拒否している。また、帯広市議会に報告義務のない第三セクターであるため、監査機能も弱く、当初立案された計画のチェックと大きく異なってしまった開業の実態をチェックできなかった。その一方で、帯広ステーションビル側は、田本社長が前帯広市長ということもあり、帯広市に過度の支援期待をしていたようである。JR北海道は、直接出資はしていなかったものの、関連会社が出資をし、出資比率は40%に達していた。帯広ステーションビルの駅デパートの大家でもあり、影響力としては帯広市以上にあったかもしれない。しかしながら、各関連会社個別の出資比率は帯広市よりは低く、当然、筆頭株主のような責任感はなかったに違いない。JR北海道も計画段階においては東京の経営コンサルタント任せで、また、帯広ステーションビルが経営破綻して行く過程では、あくまでも直接的責任を取らないような行動を取っているように見られる。残りの出資者の中で、北海道拓殖銀行が同社のメインバンクであった。しかしながら、拓銀が1997年に経営破綻したことで、帯広ステーションビルが資金の貸し手のLast Resortを失ってしまったといえる。キャッシュフロー不足を支援してくれる金融機関がなくなり、経営再建の道が完全に閉ざされてしまったといえよう。多様な株主が、互いにリーダーシップを取らなかったり、取れなかったりして、経営不振から当事者能力を失った帯広ステーションビルの経営は結局放置されてしまったのだ。こうした会社のステークホルダーが誰も最終的な責任を取らない責任不在の状況は、経営破綻した第三セクターにある典型的な症例である。

A 結論
帯広ステーションビルは、少なくとも1990年代初めまでは経営的にも順調であり、地域社会へそれなりの貢献があった。そして、その後経営は赤字転落をし、根室本線の高架化に従って店舗の移転が求められた。その時点で、第三セクターとしての使命はある程度終わっていたのではないかと考えられる。帯広市にはエスタ帯広が開業しなくても、他の民間商業施設が十分に整っている。帯広市の顔である帯広駅の活性化という問題もモーターリゼーションの進展を考えれば、リスクの大きな事業を第三セクターが行う正当性があったか疑問である。例えば、JR北海道を含めた民間企業が純粋にプロフィットベースの計画を立案し、十分な投資収益が見込まれれば駅ビル再開発を行えば良かったのではないかと考える。第三セクターがエスタ帯広の事業を行うことに対して、帯広市議会でもその正当性の問題が指摘され、市側も帯広ステーションビルからの出資引き揚げを考慮していたようである。しかしながら、一度できあがった帯広ステーションビルを中心とした価値システムの制度は帯広ステーションビルへ経営の継続性を求め、そうした圧力によって帯広ステーションビルが主体となって事業を遂行することにつながったのかもしれない。
第三セクターは通常の民間企業と比較してその公共性が強調されるため、その公共性が前面に出されて単体での収益性が疎かになりやすい。また、第三セクターを中心とした価値システムという制度が形成されると、その目的の達成に関して慣性が働き、事業の中止が非常に困難になりやすい。それだけに、第三セクターが産出する価値とそのための費用のバランスをチェックして、事業に関する意思決定を行わないと予想以上の大きな負債を負うことになる。第三セクターは、特に外部からのチェック機能が不十分で、帯広ステーションビルも株主からのチャックが十分といえなかったようだ。チェックは単なる決算の監査だけではない。経営戦略や経営計画の立案の段階でのチェックも必要である。残念ながら、地方自治体は経営をチェックするノウハウを持ちあわせないことが多い。そうなると、公共的使命が優先される事業でないならば、民間企業に任せてしまったほうが良いといえよう。商業施設の建設や運営に関わる第三セクターの経営状況は良くない。例えば、苫小牧のトピア(レポート有り)、釧路のMOO、千歳のNEWSなど、経営破綻してしまったり、赤字経営に悩んでいる。確かにその地域の商業を活性化するために、商業施設を作ることで行政が支援するという動機に駆られるのは分かる。しかしながら、こうした現状をしっかり認識し、それでも商業施設の事業に公共的正当性があるか、黒字化できる確信がないかぎり、やるべきではない。紋別市において旧国鉄駅前再開発のための商業施設は、様々な問題があり計画途中で事業中断を決めた。埋没原価や既存の制度に左右されない意思決定が、地方自治体に望まれる。(1999年10月調査)